ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(9)「遊び」の時処位
遊戯が始められた。しかしある瞬間、それは〈終って)いる。遊戯は〈おのずと進行して終りに達し、完結する〉。その進行のあいだ、全体を支配しているのは運動、動きである。つまり、高揚してはまた鎮(しず)まるという変化、周期的な転換、一定した進行順序、凝集(ぎょうしゅう)と分解である。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 26)
「遊び」には、先ず「時間的制約」が存在するということである。さらに、
遊戯は文化形式として、直ちにはっきり定まった形態をとるようになる。一度でもその遊戯が行なわれれば、それは精神的創造、あるいは精神的蓄積として、記憶の中に定着し、伝えられて伝統となるのだ。(同)
「遊び」の中には、それが繰り返される中で、人々の承認を獲得するものもあるだろう。さらに、それが日本文化を体現するものとして人々が認知するものも出てこよう。それが、世代から世代へと、さらには、時代から時代へと受け継がれ、「伝統」と称されるものへと昇華されるものもあろう。
それは子供の遊び、西洋すごろく、競走などのように一旦終った後で、すぐまた繰り返すこともできれば、長い間をおいた後で反復することもできる。この反復の可能性は遊戯の最も本質的な特性の1つである。
この点は、ただ全体として遊戯を見た場合だけでなく、遊戯の内部構造についても言うことができる。かなり発達した形式の遊戯の殆んどすべてがそうだが、反復、繰返し、順番による交代などの諸要素が、遊戯の経糸(たていと)と緯糸(よこいと)に当たるようなものとなっている。(同)
遊戯の時間的制限よりさらに強く目につくのは、遊戯の空間的制限である。いかなる遊戯も、前もっておのずと区画された遊戯空間、遊戯の場の内部で行なわれる。場を区画することは、意識的に行なわれる時と、当然のこととしてひとりでに場が成立する時とがある。また区画が現実に行なわれる場合と、ただ観念的に設定される場合とがある。外形からすれば、遊戯と祭典の間には異なったところはない。つまり、神聖な行事は遊戯と同じ形式で執行されるのだから、奉献の場を、形式上遊戯の場から区別することはできない。闘技場、トランプ卓、魔術の圏、神殿、舞台、スクリーン、法廷、これらはどれも形式、機能からすれば、遊戯の場である。(同、pp. 26f)
ということは、それがその領域だけに特殊な、そこにだけ固有な種々の規則の力に司(つかさ)どられた、祓(きよ)められた場であり、周囲からは隔離され、垣で囲われて聖化された世界だ、ということである。現実から切り離され、それだけで完結しているある行為のために捧げられた世界、日常世界の内部に特に設けられた一時的な世界なのである。(同、p. 27)
「遊び」が執り行われる架空世界においても、現実世界と同様に、聖域と俗域がある。詰まり、中には、「聖なる遊び」と呼ぶべきものも存在するということである。
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