ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(6)遊びは非日常的
成人して生活に責任を負っている大人にとっては、遊戯などというものは、しなくてもかまわない1つの機能(行為)なのである。遊戯は余計なものである。ただ、遊戯によって満足、楽しみが得られるという限りにおいて、遊戯への欲求が切実になるというだけの話である。またそれはいつでも延期できるし、全く中止してしまおうと何ら差支(さしつか)えない。肉体的な必要から課されるわけではなし、まして道徳的義務によって行なわれるものでもない。それは仕事ではない。暇な時に、つまり〈自由な時間〉に遊戯をする、ということなのだ。ただ遊戯が文化機能となることによって、はじめて必然、課題、義務などの諸概念が、副次的な結果として遊戯と関係を持つようになってくる。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 23)
一般に、「仕事」は生産的であるのに対し、「遊び」は消費的である。だから、遊ぶ元手(もとで)や時間がなければ、無理して遊ぶ必要はない。が、「遊び」が一定の文化機能を纏(まと)うに連れて、「遊び」の意義、そして必要性も否応(いやおう)なく高まってくる。
遊戯は〈日常の〉あるいは〈本来の〉生ではない。むしろそれは固有の傾向によって、日常生活から、ある一時的な活動の領域へと踏み出してゆくことである。(同)
「遊び」は、非日常世界に属するものである。言い換えれば、日常世界からの一時的な「離脱」である。
幼い子供でももう、遊びというものは〈ただホントのことをするふりをしてするもの〉だと感じているのだし、すべては〈ただ楽しみのためにすること〉なのだ、と知ってもいる。この意識が、どんなに子供の魂の奥深く絡まりついているか、それは私見では、かつてある男の児の父親が話してくれた次の場合によって、はっきり説明されると思う。
父親は、4歳になる息子が一列に並べた椅子の一番前に坐って〈汽車ゴッコ〉をして遊んでいるところに行きあわせた。抱いて愛撫してやるとその子は言った、〈パパ、キカンシャにキスしないでよ。そうでないとキシャ(客車たち=並べた椅子)がホントだと思わないんだもの〉。この〈ただ本当のようなふりをしてする〉、〈ただ楽しみのためにしている〉という遊戯の性格の中には、遊戯の劣等意識がある。それは、より本質的なもののように見える〈真面目なこと〉に対して、これは〈楽しみごと〉なんだ、という感情である。(同、pp. 23f)
概して、「遊び」には、「真面目」に対して劣等感がある。が、それは「遊び」の定義が否定的なものであるからに過ぎない。「遊び」の定義が変更されれば、この劣等意識も変わってくるに違いない。
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