ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(15)神の操り人形

 アテナイからの客人 わたしたち生きものはみな、神の操り人形だと考えてみるわけです。もっとも、神々の玩具としてつくられているのか、なにか真面目な意図があってつくられているのか、それは論外としてね。なぜなら、そんなことは、わたしたちに認識できることではありませんから。(「法律」644D-E:『プラトン全集 13』(岩波書店)森進一・池田美恵・加来彰俊訳、p.101)

 <わたしたち生きものはみな、神の操り人形だ>という話を信じるか信じないかは別として、そう仮定するということだと考えよう。

 アテナイからの客人 今日では一般に、真剣な仕事は遊びのためになされるべきだと考えられています。たとえば、戦争に関することは真剣な仕事であり、それは平和のために、効果的に遂行されなければならないと考えられています。しかし事実は、戦争のうちには兵の意味の遊びも、わたしたちにとって言うに足るだけの人間形成も現に含まれてもいませんし、戦争の結果それらが生じることもないでしょう。しかしわたしたちの主張からすれば、この人間形成こそ、わたしたちにとって最も大事なことなのです。ですから、各人が、最も長く、最も善く過ごさなければならないのは、平和の暮しなのです。(同、803D-Ep. 424

 人間は、<神の操り人形>なのであるから、平和の下、<男も女も、この役割に従って、できるだけ見事な遊びを楽しみながら、その生涯を送らねばなりません>(同、803C)、ということだ。

では、正しい生き方とは何でしょうか。一種の遊びを楽しみながら、つまり犠牲を捧げたり歌ったり踊ったりしながら、わたしたちは、生きるべきではないでしょうか。そうすれば、神の加護を得ることができますし、敵を防ぎ、戦っては勝利を収めることができるのです。どのような歌と踊りとによって、この2つの目的を達成することができるかについては、その大要はすでに語られました。いわば道は切り開かれているのですから、わたしたちは次の詩人の言葉の正しさを信じて進まなければなりません。

テレマコスよ あることはお前が自分の心で考えるであろうし

ほかのことはダイモーンが助言を与えてくれるであろう

なぜなら 神々の意に反してお前が生まれ育ったとはわたしは思わないから

わたしたちが養育する者たちも、この詩人と同じ考え方をして、一方で、これまで述べられたことが充分なものであると信じるとともに、他方、犠牲や歌舞については、どの神々に、またいつ、それぞれにそれぞれの遊びを捧げて神々の加護を受け、自らの本性に従った生活を送るべきかということを、ダイモーンや神々が彼らに助言してくださるものと信じなければなりません。人間というものは、多くは神の操り人形であって、ほんのわずか真実にあずかるに過ぎないのですから。(同、803E-804A、pp. 424f)

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