ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(7)「遊び」が属する「異世界」
この〈ただ遊戯をしているだけなんだ〉という意識も、それが最高度の真面目さ、真摯(しんし)、厳粛というものと手をたずさえることを妨げはしない。いや、そればかりではない、遊戯に夢中で耽(ふけ)っているうちに、どうかすると恍惚(こうこつ)状態に移ってゆくことがあって、〈ただ本当のようなふりをしてする〉というような言い方が、完全に当てはまらなくなったりすることもある。どんな遊戯であろうと、遊戯をしている人を、いつ何時でも、完全に虜(とりこ)にすることができるのである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 24)
「真剣さ」と「遊び」は相反(そうはん)しない。詰まり、真剣に遊ぶということがあっても何もおかしくはないということである。実際、一心不乱、一意専心、遊びに興じている人を目にすることもしばしばである。
このように遊戯-真面目という対照関係は、いつも浮動しているのである。遊戯の劣等性は、それに対応する真面目の優越性と絶えず境を接していて、遊戯は真面目に転換し、真面目は遊戯に変化する。遊戯が真面目というものを俗界に置きざりにして、美と聖の遥かな高みに、翔(か)けのぼってゆくことさえあり得ないわけではない。われわれが遊戯と神聖な宗教行事の関係を、もっとくわしく目にとめて見ざるを得なくなれば、忽(たちま)ちこういう難問が、次々と踵(きびす)を接して迫ってくるのである。(同)
さし当たっての問題は、われわれが遊戯と呼んでいる活動に固有なものとして具わっている形式的特徴をはっきり規定することである。すべての研究者が力点を置いているのは、遊戯は利害関係を離れたものである、という性格である。(日常生活)とは別のあるものとして、遊戯は必要や欲望の直接的満足という過程の外にある。いや、それはこの欲望の過程を一時的に中断する。それはそういう過程の合間に、一時的行為としてさし挿(はさ)まれる。遊戯はそれだけで完結している行為であり、その行為そのものの中で満足を得ようとして行なわれる。少なくともこういうのが、遊戯そのもの、第一義的な立場から見た遊戯が、われわれの前に姿を見せる時の現われ方である。要するに、日々の生活の中の間奏曲としてであり、休憩時間の、レクリエーションのための活動としてである。(同、pp. 24f)
「遊び」は、日常とは異なる非日常、最近流行りの言葉で言えば、「異世界」(parallel universe)に属するものと言えるのではなかろうか。
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