ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(8)時空間の限定

ところが、遊戯の固有性として、規則的にそういう気分転換を繰り返しているうちに、遊戯が生活全体の伴奏、補足になったり、時には生活の一部分にさえなったりすることがある。生活を飾り、生活を補うのである。そしてその限りにおいて、それは不可欠のものになってしまう。個人には、1つの生活機能としてなくてはならないものになり、また社会にとっては、その中に含まれるものの感じ方、それが表わす意味、その表現の価値、それが創りだす精神的、社会的結合関係、こういうもののために、かいつまんで言えば、文化機能として不可欠になるのである。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 25)

 日常を非日常へと切り替えることで遊びの世界は現れる。時として、この切り替えが日常的なものとなることもある。そこに「遊び」における社会的ないしは文化的な意義を見出すことも可能であろうし、個人的心理の変化を読み解くことも出来なくはないだろう。

 遊戯はものを表現するという理想、共同生活をするという理想を満足させるものである。そしてそれは食物摂取、交合、自己保存という純生物学的過程よりも高い領域の中に場を占めている。

こう言うと、動物の生活では遊戯が交尾期に非常に大きな役割を演じている事実と、矛盾におちいるように見えるかも知れない。しかし、われわれが人間の遊戯に対して認めたのと同じように、鳥が囀(さえず)ったり、雌を求めて啼(な)いたり、気取ったなりをして歩いたりすることに対して、そういうのは純生物学的なものの外部で演じられる行動である、と認めたならば、はたしてこれは非条理だろうか。そうではあるまい。

いずれにしても、やや高級な形式における人間の遊戯は、すべてそこに何かの意味があったり、何かのお祭になっていたりするのである。それは祝祭、祭祀の領域――聖なる領域――に属している、と言うことができる。(同)

 このように、遊戯は人生にとって不可欠なもの、文化に奉仕するものになることがある。いや、もっと正しく言えば、現に、遊戯そのものが文化になることがある。しかしそうだとすると、そのために、遊戯は、あの利害問題とは関係がない、という特徴を失いはしないだろうか。

しかし、そんな虞(おそ)れはない。遊戯が仕えている目的そのものが、直接の物質的利害の、あるいは生活の必要の個人的充足の外におかれているからである。奉献行為としての遊戯であれば、それは確かに集団の幸福安泰に貢献することができよう。だがそれは、生活の必需物資を手に入れることを直接めざした手段とは、別のやり方で執(と)り行なわれるのである。

 遊戯は日常生活から、それが行なわれる場とその持続時間とによって区別される。完結性と限定性が遊戯の第3の特徴を形成する。それは定められた時間、空間の限界内で〈行なわれ――遊戯されて、その中で終る〉。遊戯そのものの中に固有の経過があり、特有の意味が含まれている。(同、pp. 25f

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