ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(13)「遊び」の領域

祭祀(さいし)の機能は単にあることを模倣するというのではなく、幸(さち)という分け前を与えること、それを頒(わか)ち合うことなのだ。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 34)

 詰まり、<模倣的(ミメティック)というより、融即的(メセクティック)>(原注:同、p. 55)ということだ。

※融即(ゆうそく):別個のものを区別せず同一化して結合してしまう心性の原理。Participation

そのことを祭祀として演じるということは、〈その行為(儀礼行為)を助けて現実のものたらしめる〉ということである。(同、p. 34

遊戯の性格はどんなに高貴な行為にも、その固有の性格として具(そな)わることができる。

 ところで、この考え方の筋道をさらに祭祀行為まで延長して、供犠(くぎ)の儀式を執(と)り行なっている奉献司祭も、やはり1人の遊戯者ということでは同じである、と主張できるのではないだろうか。そして、もしこのことをある1つの宗教に対して認めるならば、結局すべての宗教について、それを同様に認めざるを得なくなるであろう。そういうことになれば、祭式、呪術、典礼、秘蹟、密儀などの観念は、ことごとく遊戯という概念の適用領域に納まってしまうのではないだろうか。(同、p. 41

 宗教的行為に「遊び」的要素が含まれていることは否定できない。が、だからと言って、宗教的行為は「遊び」であるとまで言うのは言い過ぎであろう。要は、どこまでの範囲を「遊び」と見做すのかという言葉の定義上の問題だと言えるだろう。

ただし、ここでわれわれが常に自戒しなければならないのは、遊戯概念のこういう内面的関連を拡げすぎることである。遊戯概念を不当に拡大して使うのは、単なる語呂合せ――言葉の遊び――にすぎない。

しかし私は、聖事を遊戯と呼んだとしても、それで言葉の遊びにおちいったものとは思わない。形式からすれば、それはどう見てもやはり遊戯なのであり、またその本質からいっても、聖事はそれを共にした人々を、別の世界へ連れ去ってゆくという限りでは、やはり遊戯なのだ。(同)

 「遊び」が非日常的であり、時と場所が限定されるものという意味では聖事も「遊び」的資格を十分に有していることは間違いない。が、「聖事は遊びである」とまで言い切るのは、やや踏み込み過ぎであるように思われる。

プラトーンには、この遊戯と聖事の同一性ということは、無条件に認められる既定の事実だった。彼は臆することなく、神に奉献されたものを遊戯の範疇の中に加えている。(同)

コメント

このブログの人気の投稿

ハイエク『隷属への道』(20) 金融政策 vs. 財政政策

バーク『フランス革命の省察』(33)騎士道精神

オルテガ『大衆の反逆』(10) 疑うことを知らぬ人達