ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(14)魂を養う「遊び」

 アテナイからの客人 わたしの言う意味は、真剣な事柄については真剣であるべきだが、真剣でない事柄については真剣であるなということ、そしてほんらい神はすべての浄福な真剣さに値するものであるが、人間の方は、前にも述べましたが、神の玩具としてつくられたものであり、そしてじっさいこのことがまさに、人間にとって最善のことなのだということです。ですから、すべての男も女も、この役割に従って、できるだけ見事な遊びを楽しみながら、その生涯を送らなければなりません、現在とは正反対の考え方をしてね。(「法律」803C:『プラトン全集13』(岩波書店)森進一・池田美恵・加来彰俊訳、pp. 423f


 これは、優れて宗教的な側面を持つ議論であり、また、哲学的な側面も有していると言えるだろう。

 本題に入る前に、少しお浚(さら)いしておこう。

 アテナイからの客人 なにごとにせよ、1つのことにすぐれた人物たらんとする者は、ほんの子供の頃から、そのことにそれぞれふさわしいもの(玩具)をもって遊戯をしたり真面目なことをしたりして、その練習をつまねばならないのです。(同、643B

 このように、プラトンは、遊戯と真面目なこととは別物という認識のようだ。

たとえば、すぐれた農夫とかすぐれた建築家になろうとする者は、後者なら玩具の家を建てるなり、前者なら土に親しむなりして、遊ばなくてはなりませんし、彼ら両者を育てる者は、本物を模倣した小さな道具を、それぞれに用意してやらなくてはなりません。その上さらに、前もって学んでおくべき教課を、あらかじめ学んでおかなくてはなりません。たとえば、大工なら測定測量のことを、兵士なら乗馬のことを、遊びなり遊びに準ずることなりを通じて、あらかじめ学んでおかねばならない。また養育者は、子供の快楽や欲望を、そういう遊戯を通じ、彼らが大きくなればかかわりをもたねばならぬものへ、さし向けるようにつとめねばならない。したがって、教育とは、これを要するに、わたしたちに言わせれば、正しい養育なのです。その養育とは、子供の遊びを通じてその魂をみちびき、彼が大人になったときに充分な腕前の者とならねばならぬ仕事、その仕事に卓越することに対し、とくに強い愛着をもつようにさせるものなのです。(同、643B-D

 ここに展開されている「遊び」は、ただ時間を消費するといった類(たぐい)のものではなく、魂を養い、卓越した仕事への愛着を育むといった、より積極的な意味合いを持つものであると言えるだろう。

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