ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(11)「遊び」の規則は絶対的

賭けごととスポーツ競技に至って、緊張は絶頂に達する。遊戯活動そのものは善悪の彼岸(ひがん)にあるとは言ったが、この緊張の要素は、どうやら遊戯とある種の倫理的内容を共にし、それを分かちあっているようである。つまり、この緊張の中で、遊戯者の各種さまざまの能力が試練にかけられるのだ。それは彼の体力、不堯(ふぎょう)不屈の気力、才気、勇猛心、持久力などの試練となる。

しかし、それらと同時に、どうしても勝ちたいという炎のように激しい願望を敢えて抑えて、遊戯の規定で決められた許容の限界の中で耐えてゆくというような、精神力がためされることもある。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 28

どんな遊戯でも、それに固有の規則がある。それは、日常生活から離れたこの暫定的な世界の中で適用され、その中で効力を発揮する種々の取りきめである。遊戯の規則は絶対の拘束力を持ち、これを疑ったりすることは許されない。

ポール・ヴァレリーはかつて事のついでにこの点に触れて、遊戯の規則に対しては懐疑ということはあり得ない。なにしろ、この規則の根底をなす土台は揺がすことができないものだ、という取りきめによっているのだから、と言ったが、これは非常に大きな拡がりのある思想である。規則が犯されるや否や、遊戯世界はたちまち崩れおちてしまう。遊戯は終る。審判の笛が続行をさえぎり、〈日常世界〉が一瞬、ふたたび動き始める。(同、pp. 28f

 規則を犯したり、無視したりする遊戯者が、いわゆる〈遊戯破り〉というやつである。この遊戯破壊者は、いかさま賭博師などとは全然違う。後者は賭け事に加わって本気でやっているかのようなふりをしているものだし、外見上は、依然として遊戯の魔圏というものを認めているのである。遊戯共同体は遊戯破りに対するよりも、いかさま師の罪悪にはずっと寛大である。つまり、遊戯破りの方は、遊戯世界そのものを打ち砕いてしまうからである。

彼が遊戯から身を引くということによって、それまで暫くのあいだ、彼が人々と一緒に閉じこもっていた遊戯世界の相対性と脆(もろ)さが、暴露されてしまうのだ。彼は遊戯から、幻想inlusioを奪い去るのである。この言葉はラテン語だが、これを置き換えればドイツ語ではEinspielung、英語ではin-playとなる。そしてこれらの言葉は協調、平衡という意味である。協調が失われ、平衡が奪われるのだ。――何と含蓄の深い言葉だろう! こういうわけで、彼は抹殺されねばならない。彼は遊戯共同体の存続を脅かしているのだから。(同、p. 29

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