ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(2)言語と神話

人類が共同生活を始めるようになった時、その偉大な原型的行動には、すべて最初から遊戯が織り交ぜられていたのである。例えば言語をとってみよう。言語、これは他人にものごとを伝達したり、教示したり、命令したりするために作られたものであり、人類の最初にしてかつ最高の道具である。言語によって人間はものごとを弁別したり、定義したり、明確化させたりしている。要するにそれによって物に名を与え、その名で物を呼んでいる。物を精神の領域へ引き上げているのである。

このように言語を創り出す精神は、素材的なものから形而上的なものへと、限りなく移行を繰り返しつづけているのだが、この行為はいつも遊戯しながら行なわれるのである。どんな抽象の表現でも、その後に立っているのは比喩であり、いかなる比喩の中にも言葉の遊びが隠れている。こうして、人類は存在しているものに対する表現を、つまり第2の架空世界を、自然界のほかに創造している。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 17

 Homo loquens「ホモ・ロークエンス」(言語人)ということである。言葉を駆使するのが人間が人間たる所以(ゆえん)の1つであるのだが、ホイジンガは、この言葉の使用にも「遊び」が含まれていると言う。

あるいはまた、神話を取り上げるがよい。これとても、存在しているものを想像力で形象化したという点は、やはり同じである。ただ、1つ1つの言葉よりは、ずっとその細工の度合が甚だしく、磨きがかかってはいるのだが。要するに、古の人は神話によって地上的なもの、存在というものを釈(と)き明かそうとした。神話によって、さまざまの物を、神的なものという基礎に結びつけて考えようとした。だが、この場合も同じことである。神話が世界に存在するものに被せる、どんな気まぐれな空想の中でも、想像力豊かな魂は、冗談と真面目の境界の上を戯れているのである。(同、pp. 17f

 自分達は一体どこから来たのか、その源を知りたいと願うのは人間の性(さが)とでも言うべきものであろう。「今・此処(ここ)・私」から離れ、過去を遡(さかのぼ)ればのぼるほど、「世迷い事」も消えて無くなる。それが、神話の世界ということではなかろうか。

《神話の時代と歴史の時代が地続きになっている――これは日本の大きな特徴です。どこの文明国でも神話時代が歴史時代に続いている国はありません。ギリシャにはギリシャ神話がありますが、今のギリシャ人たちがギリシャ神話を先祖の王朝の話として自国の歴史に結びつけて考えるようなことはありません。ところが、日本人は『古事記』や『日本書紀』に書かれている神話を読んで、自分たちの遠い祖先の話として考えることができるのです》(渡部昇一『渡部昇一の少年日本史』(致知出版社)、p. 24



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