ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(3)変更が迫られる「遊び」の概念
最後に、祭祀(さいし)というものを考察してみよう。原始共同社会はこの世の幸福の保証をつかむのに役立てようとして、さまざまの神聖な行事、奉献とか、供犠(くぎ)とか、密儀とかを行なっているが、これらは言葉の最も真実な意味で、純粋な遊戯として行なわれている。
しかも、文化を動かすさまざまの大きな原動力の起源はこの神話と祭祀の中にあるのだ。法律と秩序、取引と産業、工芸と美術、詩、哲学、そして科学、みなそうである。それらはすべて、遊戯的に行動するということを土壌として、その中に根をおろしている。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、p. 18)
荘重なる「祭祀」と「遊び」は矛盾しない。それどころか、祭祀は<純粋な遊戯として行なわれている>と言うのである。ホイジンガは、我々に「遊び」の概念の修正を迫っている。
遊戯はわれわれの意識の中では、真面目ということの反対に相当する。この対立は、さし当たり今のところ、遊戯という概念そのものと同じように、他の範疇(はんちゅう)へ還元することが不可能である。しかし、もっと詳しく見ていくと、遊戯―真面目というこの対立は決定的なものでも、固定したものでもないように見えてくる。われわれは、遊戯とは〈真面目ではないもの〉、真面目の反対である、と言うことはできよう。しかし、この主張は遊戯の多くの特性については、何一つ積極的な内容を述べてはいない。また、そういう点は別としても、それに反駁(はんばく)するのもいたってたやすいことである。〈遊戯とは「真面目ではないもの」である〉というかわりに、〈遊戯は本気なものではない〉と言ってしまえば、われわれはもう、初めの対立を見失ってしまう。遊戯が、実際には全く本気で行なわれることだってあり得るからだ。(同、p. 19)
例えば、男女関係において、「真面目な交際」と「遊びの関係」は、普通、正反対のものと考えらえる。が、だからと言って、「真面目」と「遊び」が反意的だということにはならない。遊びに真面目に取り組むことは可能だからである。
だが、それだけではない。われわれは生の基本的な範疇の中で、遊戯以外にもやはり〈真面目ではないもの〉という概念に帰せられる幾つかのものに出合うが、それらは遊戯概念とは重なるところがないのである。例えば、笑いは真面目のある種の反対ではあるが、遊戯とは決して無条件に結びつきはしない。遊んでいる子供、フットボール選手、チェスの棋士などは、極めて深い真面目さの中にあり、いささかも笑いの気配など現わしたりしないではないか。注目してよいことは、人間は遊戯という大切な機能を動物と共有していながら、この笑うという純生理的働きの方は、もっぱら人間だけの特有なものだ、ということである。(同、pp. 19f)
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