ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(12)遊戯共同体

 この遊戯破りの姿は、男の子たちの遊びの中に、最もはっきりと現われている。ただ彼らの小さな共同体の中では、奴らには俺たちと一緒になって遊ぶ気がないんだとか、奴らと一緒に遊んでなんかやるものかと言って、遊戯破りを違犯視して相手にしなかったりすることはない。むしろ彼らにとって、奴らは許せないということなど最初からなかったので、そういう態度をただ、積極的にやる気がないんだ、と言うだけのことである。

服従と良心の問題も、彼らには罰に対する怖れ以上のものでないのが普通である。遊戯破りは魔法の世界をぶち壊してしまう。だから彼は卑怯者であり、除(の)けものにされるのだ。ところで前にもすこし触れておいたように、高度に真面目な世界の中でも、ぺてん師、偽善者、かつぎ屋のたぐいは、遊戯破りより、いつも気楽な立場におかれている。遊戯破り、すなわち背教者、異端者、革新者、良心的参戦拒否者などの立場はもっと厳しい。

 しかし、この遊戯をぶち壊した連中が、自分たちだけで、すぐに新しい規則を持った新しい共同体を形づくる、ということもあり得よう。まさにこういうアウトロウ、革命家、秘密クラブ員、異端の徒たちは、集団を組織する力が非常に強く、しかもそういう場合、殆んどつねに、高度な遊戯性を示すものである。

 遊戯共同体は、一般に遊戯が終った後もまだ持続する傾きがある。もちろん、どんなおはじき遊びも、ブリッジ・ゲームも、クラブを設立することへと通じているわけではない。だが、ある例外的状況の中に一緒にいたという感情、世間一般の人々から共同して抜けだし、日常茶飯の規範を一旦は放棄したのだという感情は、その遊戯が続けられた時間を超えて、後々までその魔力を残すものである。クラブの遊戯に対する関係は、ちょうど帽子の頭に対する関係に相当する。(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中央公論社)高橋英夫訳、pp. 29f

 「遊び」は、人と人との絆を生み、人が集まって共同体を構成する。「遊び」が終了しても、この「絆」と「共同体」の記憶は消去されることはないということだ。

奉献の儀礼、つまり表現による現実化というものは、いかなる観点から見ても遊戯の形式的特徴を帯びたものにもなっている。実際、それは柵で囲繞(いにょう)された遊戯の場の中で祝祭として催(もよお)される。つまり、歓楽と自由の雰囲気の中で執(と)り行なわれ――遊戯されている。独自な、暫(しばら)くのあいだある意義を保ちつづける1つの世界が、柵の囲いの中に成立する。

しかし、この遊戯が終ると同時に、その働きまで消えてしまうのではない。むしろ、それはむこうにある日常世界の上に、遊戯が終ると同時に、その働きまで消えてしまうのではない。むしろ、それはむこうにある日常世界の上に、そのまばゆい光を投げかけ、祝祭を祝っている集団に対して、神聖な遊戯の季節が再び巡ってくるまでの安全、秩序、繁栄を授けてくれるのだ。(同、pp. 33f

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