オークショット「政治教育」(8)行動の伝統とは共感の流れ

行動の伝統とは、固定的な、融通のきかない行動様式ではない。それは共感の流れである。それは、時として外国からの影響が侵入して、中断するかもしれない。またそれは、向きを変えたり、制限されたり、押しとどめられたり、また枯渇したりすることもある。また、そこにあまりに深く矛盾が根をはっていることが明らかになって(たとえ外国の助けがなくても)危機が出来(しゅったい)することもあろう。もしこれらの危機に対処するために、何らかの確固たる不変の、独立した指導原理が存在し、社会がそれに訴えることができるのならもちろんそれは結構なことであろう。しかしそんなものは存在しない。危機が、手をつけずそのままに残しておいた、我々の行動の伝統の断片とか、遺物とか、なごりといったものの外に、我々はいかなる手立てももたないのである。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、p. 146)

 <行動の伝統>とは<共感の流れ>である。伝統は、目には見えねど止め処(とめど)なく、時と共に流れている。

《傳統(でんとう)とは過去の文化の遺產が、現在に傳へられ、現在によみがへるからこそ傳統なのである。過去の文化の遺產が、どういふ性質のものであったかを理解するといふ事は、傳統の問題の半面に過ぎず、それが現在によみがへるといふ處(ところ)を考へなければ、問題は片付かぬ。

而(しか)も、この現在によみがへるといふ事は、よみがへる處を僕等が觀察出來るといふ樣な筋合ひのものではない、よみがへるかよみがへらぬかは、偏(ひとえ)に僕等の努力とか行ひとかにかゝつてゐるといふ性質のものなのであります。傳統はさういふ僕等の行爲のなかにだけ生きてゐるものであるから、過去の遺產を、現在によみがへらせようと努力しない人にとつては、傳統といふ樣なものは、決して見付け出す事は出來ない、と言つてよいのである。

誰でも傳統の流れのうちにゐる、知ると知らざるを閏はず、傳統の流れのうちに暮してゐる、從つて傳統を知るといふ樣な事に何んの努力が要るわけではない、さういふ安易な考へ方を、僕は好みませぬ。恐らくさういふ考へには、非常に閒違つた處がある。僕等が意識しないでも、過去からの連績した流れのうちに身を浸してゐる、さういふ流れは、傳統の流れといふより寧(むし)ろ習慣の流れであると僕は考へたい。

傳統と習慣とはよく似てをります。倂(しか)し、この2つは異るのである。僕等が自覺せず、無意識なところで、習慣の力は最大なのでありますが、傳統は、努力と自覺とに得たねば決して復活するものではないのであります。僕等は習慣を見失ふといふ樣な事はないが、傳統は怠惰な眼を掠(かす)めて逃げるものだ。萬葉の傳統は、實朝(さねとも)が出るまで囘復されなかつた》(小林秀雄「傳統」:『新訂 小林秀雄全集』(新潮社)第7巻 歷史と文學、p. 227



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