オークショット「政治教育」(4)「平等主義」の行き着く先
The cult of the proletariat, of the common man, by insisting on the equality of social rights common to all, has confirmed the emphasis, already implicit in modern techniques of production, on similarity and standardization. It treats society as a conglomeration of undifferentiated individuals, just as science treats matter as a conglomeration of undifferentiated atoms. The social unit displays a growing determination to "condition" the individuals composing it in uniform ways and for uniform purposes and a growing ability to make this determination effective. The view that the exclusive or primary aim of education is to make the individual think for himself is outmoded; few people any longer contest the thesis that the child should be educated "in" the official ideology of his country. – E. H. Carr (1947), The Soviet Impact On The Western World
(プロレタリアート、平民の崇拝は、万人に共通する社会的権利の平等を主張することによって、近代の生産技術にすでに潜在していた、類似性と標準化の強調を確認した。それは、科学が物質を未分化な原子の集合体として扱うように、社会を未分化な個人の集合体として扱うものである。社会的単位は、それを構成する個人を均一な方法で、そして、均一な目的のために「条件づけ」ようとする決意が高まり、この決意を効果的にする能力が高まっていることを示す。教育の排他的あるいは主要な目的は、個人が自分で考えるようにすることであるという見解は時代遅れであり、子供は自国の公式イデオロギー「で」教育されるべきだというテーゼに異議を唱える人はもはやほとんどいない)
今となっては、このような言説がいかに馬鹿らしいものであるのかが知れるが、これが書かれた当時は、このようなことが真顔で言われたのである。自由主義は時代遅れで、これからは社会主義の時代だと。
The standardization of production makes it
necessary for large numbers of individuals to spend their working hours doing
exactly the same thing in exactly the same way. Press and radio ensure that they
are inoculated with the same ideas or with a few simple variants of them;
commercial advertising strives to make them want the same things to eat, drink
and wear, and the same amusements to distract them. The individual becomes
depersonalized; the machine and the organization are more and more his masters.
The contemporary problem of individualism in a mass civilization has no
precedent anywhere in history. – Ibid.
(生産の標準化によって、多数の個人が労働時間を費やしてまったく同じことをまったく同じように行うことが必要になる。彼らが同じ考えか、そのいくつかの単純な変種を予防接種することを報道とラジオが保証する。商業広告は、彼らが同じ食べ物、飲み物、着る物、そして、同じ気を紛らわせる娯楽が欲しくなるように仕向ける。個人は脱人格化され、機械と組織がますます彼の主人となっていく。大衆文明における個人主義という現代の問題は、歴史上どこにも前例がない)
「平等主義」の行き着く先がこのような単一色の社会であるのだとすれば恐ろしい。ソ連邦という社会主義国家樹立の実験は失敗に帰したが、平等思想はいまだ健在である。
我々が今問題にしている主張は、社会の整序化への関わりは、あらかじめ考量されたイデオロギーをもってはじまる、つまり追求されるべき目的についての、経験とは独立に得られた知識をもってはじまる、というものである。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、p. 137)
政治的イデオロギーは、政治的活動の、神にも似た生みの親であるどころか、せいぜいのところその世俗的な継子(けいし)にすぎない…それは、追求されるべき目的についての、あらかじめ独立に考案された図式というかわりに、人々が、その社会の整序化への関わりという仕事に関して、これまで慣れ親しんできた様態から抽出された観念の体系ということになる。どんな政治的イデオロギーも、その由来は、政治的活動に先んじてあらかじめ考案されたものではなく、むしろ政治の様態についての考察に基づくものであることを示している。つまり、政治的活動がまず第一にあり、その後に政治的イデオロギーが来るのである。だから、今我々が検討している政治の理解は、厳密には、本末転倒という欠点をもっているのである。(同)
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