オークショット「政治教育」(6)政治とは伝統に暗示されたことの追求

政治という活動は、その時々の欲求からも一般原理からも、自動的に発生するものではなく、存在している行動の伝統自体から発するものである。また政治活動が取る形とは、多くの伝統の中で暗示されたことを探究し、追求するによって、すでに存在している秩序に手を加えるということである。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、p. 143)

 政治とは、既存の秩序に手を加え、新たな秩序を構築する活動のことである。秩序は、独り明示的規則だけで成り立っているわけではない。伝統や慣習という形で過去より伝わる暗示的な部分にも十分目配りしなければ、十全たる活動は望めない。

政治的活動を為し得る社会を構成している整序化は、それらが習慣であれ、制度であれ、あるいは法や外交的決定であれ、整合的であると同時に、不整合的でもあるものである。それらは、あるパターンをなしているが、同時にそれらは、完全には現われていないものに対する、ある共感を暗示してもいるのである。政治的活動とは、この共感を探究する試みである。だから、意味のある政治的推論とは、存在はしていてもまだ十分には把握されていないある共感を、説得的なやり方で呈示することであり、今こそそれを認知すべき絶好の時であることを、説得的に証明することであろう。(同、pp. 143-144

 政治活動は、明示的なものだけではなく、暗示的なものにも目を向けて、これに<共感>することが必要なのだ。伝統に棹差すことによって<共感>したことを説得的に明示し、探究の中身を深く掘り下げることが大事だということである。

政治においては、いかなる企てもある帰結としての企てであり、夢や一般原理の追求ではなく、暗示された意味の追求である(同、p. 144

 現実から乖離(かいり)し観念的世界に遊ぶのではなく、現実を追求することによって「なすべきこと」を見出す。問題の手懸りは、必ずや過去にある。

もし我々が、政治とはそもそも暗示的意味の追求以上の何ものかである、という幻想から逃れることができれば、理解の誤ることは少なくなろうし、また致命的なものでもなくなるだろう。それは、論議によって結着するのではなく、会話によって追求するのである。(同、pp. 144-145

 「なすべきこと」は、議論に勝つか負けるかによって決まるのではない。まして、多数決が絶対なのでもない。<会話>を通して何がどう問題なのかを知り、何をどうすべきなのかを見出す。それが政治にあるべき姿勢である。

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