オークショット「保守的であるということ」(1)保守人は輿

保守的であるということは、思考や行動が或る様式を持つ傾向にあるということであり、或る種の行動様式や人間をとりまく環境の或る状態を他よりも好むということ、或る種の選択を行う傾向にあるということである。(中略)その中核をなすのは、何か手もとにないものを望んで捜し求めるのではなく、手にすることができる限りのものを利用して楽しみを得ようとする傾向、かつてあったものや将来あるかも知れないものではなく、現にあるものから喜びを得ようとする傾向である。

もしかすると、現にあるものに対して感謝することがふさわしく、従って、過去からの贈り物ないし遺産に対する感謝の念もふさわしい、ということが反省によって明らかにできるかも知れないが、そこには過ぎ去った昔のものへの盲目的崇拝は少しもない。大切にされているのは現在なのであり、そしてそれが大切にされる理由は、遠い古代とのつながりがあるということでも、他の可能な選択肢よりも賞賛に値すると認められているということでもなく、それに親しんでいるということにあるのである(オークショット「保守的であるということ」:『政治における合理主義』(勁草書房)石山文彦訳、p. 199)

 保守とは、何か実際に存在するものを保ち守ることである。言い換えれば、実在しない理想よりも実在する現実をより大切にしようとする考え方である。

 もし現在が貧弱なもので、利用して楽しみが得られるものをわずかしか、ないしは少しも提供しないならば、この性向は弱いものであるか、存在しないであろう。現在が著しく不安定ならば、それはもっと堅固な足場を求め、それゆえ、過去に頼り過去の中を探って歩く姿をとって現れるだろう。しかし、そこに楽しみを見出すことのできるものが豊富な時は、それは自らの特徴を充分に示すし、さらに、明らかな喪失の危険がこのものと結びついている時、それは最も強くなるだろう。(同)

 私は少し見方が異なる。楽しみが見出せるかどうかは、心の持ち様(よう)である。足るを知る人にとっては、世の中は驚異に満ち溢れている。他方、自意識が肥大化してしまった人にとっては、世の中は詰まらぬものの集合のようにしか見えないだろう。

 保守的な人とは、先人から引き受けた文化や伝統を、遺漏無く後人に引き渡す「輿(こし)」(vehicle)である。

この性向が適合的な人間とは、簡単に言えば、自己の大切にしてきたものを失うおそれがあることを鋭敏に悟っている者、楽しみを見出す機会に或る程度は恵まれているが、喪失に対して無頓着でいられるほどにはそれに恵まれていない者である。(同)

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