オークショット「保守的であるということ」(3)進歩主義者の誤解

すべての進歩には変化が伴うのだから、我々はその必然的帰結としての混乱を、期待される利益と常に突き合わせなければならない。しかもこの点について納得した後も、考慮されるべき点がまだ残っているであろう。変革とは常に、端的な評価が下しにくい企てなのである。つまりそこでは、利益と(慣れ親しんだものを失うということを除外しても、なお残る)損失とが非常に緊密に織り合わされており、そのため、最終的な成果を予想することは極めて困難である。但し書きなしの進歩などというものは、存在しないのである。なぜなら、変革という活動は、追求されている「進歩」なるものばかりでなく、新たに複合的状況をも生み出すのであり、「進歩」なるものはその構成要素の1つにすぎないからである。

変化の総体は意図された変化よりも常に広範なものであり、帰結として生ずる事柄をすべて予測することも、その範囲を画定することも不可能である。そういうわけで、変革が行われる場合はいつも、意図されたものよりも大きな変化が生まれてくることは確実であるし、利益とともに損失も生じ、影響を受ける人々の間で、その損失と利益とが平等に分配されはしないであろうということも、また確実である。そして、得られる利益が意図されたものを上回る可能性もあるが、悪化した分によってそれが帳消しにされてしまう危険も、あるのである。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 203

 進歩主義者は、変革によって得られる(と目される)利益しか眼中にはない。変革によって失われるもの、変革によって生まれる不利益には気にも留めない。変革の算盤勘定が合うかどうかも眼中にない。そこには、変革が進歩であるという思い込みがあるだけだ。変革には、進歩も有れば退歩もあるということが分かっていない。否、分かろうとしない。だから、変革には、混乱が付き物なのである。

 これらすべてのことから、保守的な気質の人はいくつかの適切な結論を導く。

第1に、変革による利益と損失は、後者が確実に生ずるものであるのに対し、前者はその可能性があるにすぎない、従って、提案されている変化が全体として有益なものと期待してよい、ということを示す挙証責任は、変革を唱えようとする者の側にある。

第2に、変革が自然な成長に一層似ていればいるだけ、(即ち単にそれが状況に対して押し付けられたというのではなく、そのもっと明確な兆しが状況の中にあればあるほど)、損失の方が利益を上回る結果となる可能性は低くなる、と彼は思う。(同、pp. 203-204

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