オークショット「政治教育」(13)prejudice(先入見)
what is equally important is not what happened, here or there, but what people have thought and said about what happened: the history, not of political ideas, but of the manner of our political thinking. -- Michael Oakeshott, Political Education: FIVE
(等しく重要なのは、あちらこちらで起こったことではなく、起こったことについて人々がどう考え、何と言ったのかということ、すなわち、政治思想ではなく我々の政治的思考方法の歴史である)
政治において重要なのは、出来事をどう解釈し、どう対処するのかということである。したがって、先人が出来事についてどう考え、何と言ったのか、そしてどのような結果に至ったのかを研究することは、経験値を高めるという意味でも大切である。
Every society, by the underlinings it makes in the book of its history, constructs a legend of its own fortunes which it keeps up to date and in which is hidden its own understanding of its politics; and the historical investigation of this legend -- not to expose its errors but to understand its prejudices -- must be a pre-eminent part of a political education. – Ibid
(あらゆる社会が、自らの歴史書に下線を引くことによって、絶えず最新の状態にし、自らの政治についての独自の理解が隠されている自分たち自身の運命の伝説を作成する。そして、この伝説の歴史的調査――自らの誤りを暴くためではなく、自らの先入見を理解するために――は、政治教育の傑出した部分であるに違いない)
prejudice(先入見)とは、「予め(pre)の判断(judice)」ということだ。 そこには、先人が積み重ねた営為の試行錯誤があり、そのことによって得られた「知恵」と「教訓」がある。詰まり、
'prejudice' is a distillation of a whole way of knowing, of understanding, and of feeling – Robert Nisbet, Conservatism: Dream and Reality
(「先入見」とは、知ること、理解すること、感じること、その方法全ての蒸留である)―ロバート・ニスベット『保守主義 夢と現実』
Prejudice has its own intrinsic wisdom, one that is anterior to intellect. Prejudice 'is of ready application in the emergency; it previously engages the mind in a steady course of wisdom and virtue and does not leave the man hesitating in the moment of decision, skeptical, puzzled, and unresolved.' – Ibid.
(先入見には、知性に先立つもの、独自の本質的な知恵がある。先入見は「非常時にすぐに適用できる。予め心を知恵と美徳の着実な方向に向かわせ、人が決断の瞬間に躊躇し、懐疑し、困惑し、未解決のままにすることがない」)
prejudice is an epitomization, in the individual mind, of the authority and wisdom which lie in tradition. – Ibid.
(先入見とは、伝統の中にある権威と知恵を、個人の頭の中で要約したものなのである)
かくて、本来の歴史研究の中で、また過去へとふり返ることによって現下に起りつつある諸傾向を見て取る、この準歴史研究の中でこそ、政治的活動についての現在広がっている最もひどい誤解の1つから、のがれ得ると期待できるのである。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、p. 151)
現状をどう解釈し、どのような処方箋を書くのかを考える際、「伝統」という「先入見」を活用しようとするのか、それとも、「イデオロギー」という「偏見」を参照しようとするのかで方向性はまったく違ったものになるだろう。
しかしながら、自分自身の政治的活動の伝統に注意を向けるだけでは、十分ではない。その名にふさわしい政治教青とは、現代の他の様々の社会の政治についての知識をも包含するものでなければならない。そうでなければならぬわけは、我々の政治的活動の少なくともいく分かは、他の人々のそれに関係づけられており、彼らが自身の整序化に配慮しつつどのようにやっているかを知らないならば、彼らがどんな筋道をたどろうとするだろうかを知り得ないであろうし、我々自身の伝統の中で、いかなる資源をはり出さねばならないか、ということにも気づかないだろうからである。そしてまた、自分の伝統しか知らないということは、本当はそれをさえ十分には知らない、ということだからである。(同、pp. 151-152)
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