オークショット「歴史家の営為」(4)歴史的過去
What we call 'past events' are … the product of understanding (or having understood) present occurrences as evidence for happenings that have already taken place. The past, in whatever manner it appears, is a certain sort of reading of the present. Whatever attitudes present events are capable of provoking in us may also be provoked by events which appear when we regard present events as evidence for other events -- that is, by what we call 'past' events. In short, there is not one past because there is not one present: there is a 'practical' past, a 'scientific' past and a (specious) 'contemplative' past, each a universe of discourse logically different from either of the others. -- Michael Oakeshott, The activity of being an historian: FOUR
(所謂(いわゆる)「過去の出来事」は、現在の出来事を、既に起こった出来事の証拠として理解する(あるいは理解した)ことの帰結である。過去は、どのような姿で現れるにせよ、ある種現在の解釈である。現在の出来事が私達に引き起こすことのできる態度は何であれ、現在の出来事を他の出来事の証拠と見なしたときに現れる出来事、詰まり、所謂「過去」の出来事によっても引き起こされるかもしれない。詰まり、現在が1つでないのだから、過去は1つではないのだ。「実践的」過去、「科学的」過去、そして(もっともらしい)「観照的」過去があり、それぞれが他のいずれとも論理的に異なる談話の世界なのである)
現在の出来事をどのような態度で扱うのかによって、その証拠たる過去の出来事に対する捉え方も変わってくる。よって、現在の解釈が多様であれば、結果として、過去も多様となるということだ。
The activity of the historian is pre-eminently that of understanding present events -- the things that are before him -- as evidence for past happenings. His attitude towards the present is one in which the past always appears. But in order to understand his activity fully, the question we must ask ourselves is: Can we discern in the attitude of 'historians' towards the past and in the kind of statements they are accustomed to make about it, any characteristics that warrant us to conclude that, besides a 'practical' past, a 'scientific' past and a (specious) 'contemplative' past, there is a specifically 'historial' past? -- Ibid.
(歴史家の営為は、優(すぐ)れて、現在の出来事――目の前にあるもの――を過去の出来事の証拠として理解する営為である。現在に対する彼の態度は、過去が常に登場するものである。しかし、彼の活動を完全に理解するためには、私達は自問しなければならない。過去に対する「歴史家」の態度や、彼らが過去について述べ慣れた類(たぐい)の記述中に、「実践的」過去、「科学的」過去、(もっともらしい)「観照的」過去以外に、特に「歴史的」過去があると結論するに足る特徴を見出すことができるのかと)
「歴史的過去」について、E・H・カーと丸山眞男の言葉を引いておく。
《歴史家は一人の個人であります。それと同時に、他の多くの個人と同様、彼はまた一個の社会的現象であって、彼の属する社会の産物であると同時に、その社会の意識あるいは無意識なスポークスマンであって、こういう資格において、彼は歴史的過去の事実に近づいて行くのです》(E・H・カー『歴史とは何か』(岩波新書)清水幾太郎訳、p. 48)
《歴史的過去は、直接に現在化されるのではなくて、どこまでも過去を媒介として現在化されます。思想家が当時のことばと、当時の価値基準で語ったことを、彼が当面していた問題は何であったか、という観点からあらためて捉えなおし、それを、当時の歴史的状況との関連において、今日の、あるいは明日の時代に読みかえることによって、われわれは、その思想家の当面した問題をわれわれの問題として主体的に受けとめることができるのです》(丸山眞男「幕末における視座の変革―佐久間象山の場合―」:『忠誠と反逆』(筑摩書房)、p. 117)
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