オークショット「政治教育」(15)【最終】歴史教育の必要

これらおよび他の政治的思考様式を越えて、我々の経験全体の地図の上で、政治的活動自体の位置を考察する、というような反省の仕方がある。この種の反省は、政治的意識をもち知的活力をもったいかなる社会においても、これまで遂行されてきたものである。そして、ヨーロッパの社会に関するかぎり、そのような探究によって、各世代が各様に定式化し、それぞれ自分が活用し得る技術的手段を用いて取りくんできた知的諸問題が、明らかになっている。また政治哲学は、確固たる結論を積み上げたり、さらなる研究が安んじて依拠し得る諸結論に到達したりすることによって「進歩する」科学とは、見なし得るものではないから、その歴史は、とりわけ重要なものとなる。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、p. 153)

 政治には、最終到達点はない。初期の目標に達成したら終わりというようなものではない。が、中には、「平等社会」などという到達目標が予め設定され、これに向けて歩を進めるのが政治であるかのような空想も存在する。

 20世紀は共産主義国家樹立に向けて壮大なる実験が行われた世紀であった。が、「平等社会」などというものは、観念の世界だけで成立するものであって、現実社会においてこのような考え方が機能しないことが実験の失敗によって明らかとなったのである。にもかかわらず、未だに「平等社会」を実現することが正義だと考える人達が社会を掻き乱し続けている。

 我々が学んだのは、たとえ観念の世界で可能であったとしても、それを現実の世界に落とし込むことは言うほど簡単ではない、否、出来ないということではなかったか。我々に出来ることは、「革命」を起こして一足飛びに理想を追求することではなく、現実を踏まえ、歴史を参照し、加えるべき修正を加え続けるという地道な作業ではないのだろうか。

実際ある意味では、それは歴史以外の何物でもないのであり、それも、諸々の教説や体系の歴史ではなく、哲学者が、一般の思考法の中に見出した不整合や、彼らが提案したその解決法などからなる、1つの歴史なのである。この歴史の研究は、政治教育の中で重要な位置を占めると考えねばならないし、また現代における反省がそれに与えた展開を理解しようとすることは、なおいっそう重要である。(同)

 言うまでもなく、<歴史>は「玉石混交」であるから、しっかりとした「歴史眼」を養い身に付けなければ、宝石だと思って只の石を掴みねない。だから、教育が大事になるのである。

政治哲学が、政治的活動において成功を収めるための、我々の能力を増強するなどということは、期しがたいことである。それは、よい政策と悪い政策とを区別することを助けることなどできないだろうし、我々の伝統のもつ暗示的意味を追求しようとする場合に、我々を案内したり導いたりすることもできない。

しかし、政治的活動と深く結びつくことになった、様々の一般概念――例えば、自然とか人為、理性、意志、法、権威、義務など――を忍耐強く分析することは、我々の思考からいくらかの歪みを取り除き、諸概念のもっと経済的な使用へと導くことができるかぎりは、過大にも過小にも、評価されるべきではない活動である。(同、pp. 153-154)【了】

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