オークショット「政治教育」(14)「真理は細部に宿る」
他の人々の政治の研究は、我々自身の政治の研究と同様、行動の伝統についての生態的研究でなければならず、機械的装置の解剖学的研究とか、イデオロギーの研究ではない。そして、我々の研究がこのようなものである場合にのみ、我々は他の人々のやり方から有益な刺激を受けながらも、幻惑されないような道を見出すことであろう。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、p. 152)
<イデオロギー>は、抽象的なものであるから、或る意味、世界のどこにでも、そして、いつの時代にも応用することが可能である。が、政治とは、本来的に優れて環境に依存するものであるから、地域性、国民性、時代状況といったものを具体的に勘案することが必要となる。
他人の実践や目的から、「最善のもの」を手あたりしだい選び出すために世界をあさることは(折衷主義者ゼウクシスは、へレネよりもさらに美しい顔を造形しようとして、それぞれに完璧さで際立った部分部分をはり合わせた、と言われるが、それと同様に)堕落した企てと言わねばならない。それは、人の政治的平衡感覚を失わせる最も確実な方法の1つである。だが他方、他の人々がその整序化に務める仕事に関する具体的な在り方を探究するならば、さもなくばかくれたままになっている、我々自身の伝統の中のいくつかの重要な筋道を明らかにしてくれるであろう。(同、pp. 152-153)
政治的成功例を搔き集めて貼り合わせたところで上手くいく保証はどこにもない。かつてどこかで上手く行ったことであっても、「時・処・位」が異なれば、同じように上手く行くとは限らない。過去の成功例から読み取らねばならないことは、成功という表層的なことではなく、どのような状況において、どのような手段を講じたことがどのような結果へとつながったのかという具体的な中身である。
政治的活動についての反省は、様々の水準でおこなわれ得る。即ち例えば、ある情況に対処するために、我々の政治的伝統はどんな手段を提供するのか、を考察したり、あるいは、我々の政治的経験を1つの教義に縮約して、それを、ちょうど科学者が仮説を使うように、その暗示的意味を探るために使用することもできる。(同、p. 153)
<伝統>は、我々の「後ろ盾」であり、活動の原動力である。が、<伝統>は、大きな流れであって、具体的状況に対して答えてくれるものではない。よく「真理は細部に宿る」と言われるように、歴史を深く探索しなければ、真理には辿り着けないということである。
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