オークショット「政治教育」(5) イデオロギー

我々が「イデオロギー」と呼ぶ抽象観念の体系は、ある種の具体的活動からの抽象であることになる。ほとんどの政治的イデオロギー、そしてとりわけその中で最も有用なもの(というのは、イデオロギーは疑いもなく、有用性をもっているのだから)は、ある社会の政治的伝統からの抽象である。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、pp. 140-141)

 具体的活動を素直に観念の世界へと取り込められたら問題はない。が、我々は往々にして斜に構え、現実を歪(ゆが)んで取り込みがちである。だから、「理念」も歪んでしまうのである。

しかし時には、政治的経験からの抽象ではなく他の何らかの活動様態――例えば戦争とか、宗教とか、産業の経営など――から抽象された、政治への指導原理そしてイデオロギーが提供される場合がある。そしてこの場合、我々に示されるモデルは、単に抽象的であるのみならず、それが抽出されたもとの活動が的はずれなものであることになる。私の意見では、これはマルクス主義のイデオロギーが提供するモデルの欠点の1つである。しかしいずれにせよ重要なことは、イデオロギーはせいぜいのところ、具体的活動のある様態からの縮約にすぎないという点である。(同、p. 141)

 具体的活動から帰納的に得られた政治思想ではなく、偏見と妄想を体系化した「イデオロギー」ほど迷惑なものはないだろう。世の中に「ルサンチマン」(怨恨)が広がるだけでも問題なのに、曲がりなりにもそれに「お墨付き」を与えることになってしまうのであるから大変なのである。

政治を、独立に考案されたイデオロギーの導きの下に、社会の整序化に関わる活動と理解することは、それを純粋に経験的な活動と理解するのと同じくらい、誤解であるということになろう。政治が他のどこにはじまるものであろうと、それはイデオロギー活動にはじまるものではあり得ないのだ。

 地に足の着かぬ<イデオロギー>など「虚偽の意識」(エンゲルス)に過ぎないということである。

科学の仮説が、既に存在している科学的探究の伝統の中にでなければ、現われることも機能することもまったく不可能であるのと同様に、政治的活動の諸目的の体系も、我々の整序化へいかに関わるべきかという既存の伝統の中にのみ現われ、またそれに結びつけられる場合にのみ、評価し得るものとなるのである。政治においては、見出し得る唯一の具体的活動様態とは、経験主義と追求さるべき諸目的の双方が、いずれも伝統的行動様式に、その存在および機能において、依存していると見なされるようなものである。

 現実に立脚せぬ理念など単なる「妄想」に過ぎない。その「妄想」を逞(たくま)しくして体系化したものが、「イデオロギー」と称するものの「正体」である。

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