オークショット「歴史家の営為」(7)実践者 VS 歴史家

(歴史的な著述家に特有のものとして私の念頭にある種類の、過去に関する言明の中に表現されるような)特殊に「歴史的」である態度においては、過去は現在との関連において眺められるのではない。つまりあたかもそれが現在であるかのように扱われるのではない。証拠が表現し、また指し示すものはどれも固有の位置を有しているものと認められる。何も除外されないし、何も「非寄与的」であると見なされない。ある事象の位置は、後続する事象との関連によって決定されるのではない。ここで求められているのは、後続のあるいは現在の事物の状態についての正当化でも批判でも説明でもない。「歴史」においては、早く死に過ぎたり、不慮の死を遂げた者はない。そこには成功もなければ、失敗もないし、非嫡出子もいない。それに関して是認が作動し得るような、望ましい事物の状態など存在しないのだから、何ものも賞賛されない。もちろん何ものも非難されない。この過去は、実践者が彼の現在から彼の過去へと転送する道徳的・政治的・社会的構造を持たない。(オークショット「歴史家の営為」(勁草書房)、p. 181)

 歴史的記述とは、筆者の主観が排除されたものでなければならない。そこには、善悪もなければ好悪もない。損得勘定もなければ、価値判断もない。ただ歴史的事実が淡々と並べられたものである。

実践者の注意が過去に向けられるのは、彼の現在の関心、野心や行為の方向ゆえに彼にとって重要であるような、現在の出来事の寄せ集めによってであるか、あるいは偶運が彼の行く手に置いたような、また人生の浮沈がたまたま彼を巻き込むような現在の出来事によってである。換言すれば、「それは過去についてどんな証拠を提供するのか」と彼が尋ねるところの素材は、偶然か無批判的な選択かのいずれかにより、彼のもとに至る。要するに、彼の証拠すなわち彼がそれから始めるものは、彼が自分の周りの出来事から受け容れた何かにすぎないのである。彼はそれを「積極的に」捜し求めることなく、提供されたものは何であれ拒絶することはない。(同、p. 182

 <実践者>は、「今・ここ・私」から<過去>を見る。得られる<過去>は、主観的世界の中にある。一方、<歴史家>は、過去に降り立ち、<過去>を<過去>として見る。そこには主観は紛れ込まない。

歴史家に関して言えば、事態は異なる。歴史家の過去に対する探究は、現在の出来事との偶然の遭遇により決定されてはいない。適当性と完全性の考慮により決定される、(文書など)現在の諸経験からなる一世界(a world)を歴史家自身が進んで集める。「歴史的」過去が現れるのは、現在の諸経験からなるこの世界からである。(同)

「歴史家」の営為は(それが過去に対する実践的態度から解放されているゆえ)過去の事象に対するそのもの自体のための関心を、あるいは後続のまたは現在の事象から独立したものとしての過去の事象に対する関心を、表現していると言われるかもしれない。(同)

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