オークショット「歴史家の営為」(11)【最終】過去の政治利用
たしかに我々の時代の性向は、眼前に起きた事象を過去の事象の証拠として見ること、つまり前者を「結果」として理解し、その原因を発見するために過去に目を向けることにある。しかしこの性向は、過去を現在に同化するというもうひとつの同様に強力な傾向に結合されている。我々の圧倒的な関心は、「歴史」ではなく回顧的政治に存する。実際、いまや過去はかつてなかったほど、まるで日曜日の午後、牧草地でホイペット犬をそうさせるように、我々の道徳的意見や政治的意見を運動させる場になっている。さらに(多少ましなことを期待してよかったはずの)例の理論家たちでさえ、重要なのは特定の種類の「現在」なのであって、過去と「実践的」現在との結び付きを緩めることこそ「歴史家」の任務であると注意を与えようとはしていない。むしろ彼らは過去と現在との結び付きの解明に熱中しているのである。(オークショット「歴史家の営為」(勁草書房)、p. 193)
<過去>は、現在我々が存在する根拠として政治利用されている。<過去>の中から自分に都合の良い<過去>が選びだされ、自分に都合の良い解釈が施される。
今日の世界は、事象が安全に過去に入っていくことを許さないように決定づけられている。つまりこの世界は、事象を人工呼吸の方法で生かし続けるように、あるいは(必要なら)そのメッセージを受領するため死者の手から事象を呼び戻すように決定づけられているのである。というのは、この世界は過去から教訓を得ることだけを望んでいるからである。この世界は、言うように仕込まれた発言を見せかけの権威を持って繰り返す「生きている過去」を構築する。(同、p. 194)
<過去>は、現在の自分にとって都合の良い発言を探し出す貯蔵庫と化してしまっているのだ。
かつて「歴史的」過去の出現を邪魔していたのは宗教であったが、今日では政治である。だがそれは、同じ実践的性向であることに変わりはない。(同、p. 194)
<過去>を「歴史的過去」として手に入れるためには、<過去>を政治利用し、弄(もてあそ)ぶことを慎まねばならない。でなければ、我々は、「歴史」としての<過去>を手に入れることは出来ないであろう。
歴史家の営為は、他のすべてを排除して「真」と呼ぶことが許容される、諸事象の唯一理念的な整合性(コヒーレンス)の解明に資するというような営為ではない。
それは、著述家が過去のための過去に関心を抱き、選択された一尺度に従って研究することで、同じような等級の非必然的事象の集まりの中に整合性を引き出す営為である。(同、p. 195)【了】
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