オークショット「歴史家の営為」(8)「歴史的」な態度

漸進的にしかも多くの障碍(しょうがい)にもかかわらず出現してきた、過去に対する態度が存在する。その態度においては、過去の事象は、単なる「イメージ」ではなく、「事実」として理解され、後続の事象や現在の周囲状況や欲求から独立したものとして理解され、また必要十分条件を決してもたないものと理解される。つまり特別の種類の探究や発言を誘発するが、実践的態度でも科学的態度でも観照的態度でもないような、過去に対する態度が存在するのである。他の態度にいささかも逆戻りすることなくこの態度を保持し、過去へ向かう探究者は僅(わず)かしかいないかもしれない。だが我々は、この態度があくまで固持されているのを見出すとき、それを注目すべき偉業であると認める。(オークショット「歴史家の営為」(勁草書房)、p. 186)

 オークショットは、これを「歴史的」な態度と称している。オークショットの言う「歴史的」な態度は、時間を遡(さかのぼ)って「原因」を探し求めるものではない。<過去>は、ただ「歴史的事実」として描かれるのである。

歴史の探究を「起源」への探究とする考えについて我々の抱く疑いは結局のところ正当な疑いだが…「起源」を探究することは、歴史を後向きに読むことであり、したがって過去を後続の、または現在の事象に同化することだからである。それは、既に特定された場面の「原因」や「始まり」に関する情報を提供するために、過去に目を向ける探究である。そしてこのような限定された目的に操舵されるこの探究は、過去を単にこのような場面の中に表されるかぎりで認識するのであって、過去の事象に恣意(しい)的な目的論的構造を押し付けている。(同、p. 188

 ここでオークショットは、「最近の過去の事象に対する真正の歴史的探究が可能かどうか」について考察する。

最近の過去に対する探求、また過去に対する「公的」探求が「歴史的」研究の地位に達するとは期待し得ないと信じるについては、様々な理由が挙げられている。最近の事象は、焦点を合わせるのが特別困難であるとも、偏見の残存が離れた立場に立つことを妨げるとも、押さえるべき証拠は量が膨大であるとともにしばしば意気阻喪(そそう)するほど不完全であるとも言われる。また過去の「公的」探求は、「真理」の発見以外の関心の現存により、制約されがちであるとも言われる。たしかに以上のことはどれもよく観察されている。(同、pp. 188-189

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