オークショット「歴史家の営為」(9)道徳的判断を排除する根拠
常に過去はまず最初、実践の語法で我々のところに現れるのであり、その上で「歴史」の語法に翻訳される。そこで周囲状況の変化、時間の経過や無関心さの無理な押し付けなどが全くあるいはほとんど助力にならない場合、「歴史家」がこの翻訳という課題を達成するのは、特に困難となる。対象は問題の企てに対して有用性や関連性のないことにより絶縁され、囲いを巡らされているものの方が「観照」しやすいし、冗談は自分をからかうのでないものの方がわかりやすい。ちょうどまったく同じことで、過去は、非歴史的態度を積極的に誘発することのないようなものの方が、そこから「歴史」を作ることが(他の事情が等しいかぎり)容易だろう。(オークショット「歴史家の営為」(勁草書房)、p. 189)
「歴史的過去」とは、主観が入り混じった語法から主観を排除し、歴史の語法へと「翻訳」された<過去>だということである。例えば、道徳的判断も、歴史的語法へと翻訳され排除されねばならない。排除の理由として、次のようなものが一般に挙げられよう。
過去の行為の道徳的評価は、絶対的な道徳的標準の適用を伴う、と(けれどもそのような標準について見解の一致などない)。
あるいはそれは、その行為が遂行された場所と時期において通用していた標準の適用を伴う、と(だがこの場合探求者は、その時代の道徳家が言ったであろうことを引き出すだけのことであって、彼は現実に述べられたことを引き出すことに携わり、そうして自分の探求を道徳的意見の「歴史」になす方がずっとよいであろう)。
あるいは例えば現代のような何か別の場所と時代の規準の適用を伴う、と(だが「歴史的」には、我々の座標点としてある時代と場所を別のそれに優先して選ぶ理由はまったくないのであって、その営為全体が窓意(しい)的で余計なものとして表される)。
またさらに次のようにも言われる。行いの道徳的善悪は、行為の動機に関連しているのであり、動機は常に心の奥に隠されているのであるから、過去のにしろ現在のにしろ、行いに関してこの種の道徳的判断を宣言し得る証拠は常に不足しているだろう、と。
もっとも以上の論証は、「歴史家」の著述から道徳的評価でなく単に道徳的非難を排除しているにすぎない。その意図は両方を排除することにあるのだが。
しかしながら実のところ、「歴史的」な探求や発言から道徳的判断を排除する根拠は、適用すべき標準について一致することの困難さにも、証拠の不存在と言われているものにもない。その根拠は、行いの道徳的価値について宣言することが、つまり道徳的構造を過去に押し付けることが、過去の研究への実践的関心の侵入を意味するというところにある。(同、pp. 190-191)
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