オークショット「政治教育」(7)イデオロギーという縮約
A total ideology is an all-inclusive system of comprehensive reality, it is a set of beliefs, infused with passion, and seeks to transform the whole of a way of life. This commitment to ideology—the yearning for a ‘cause,’ or the satisfaction of deep moral feelings—is not necessarily the reflection of interests in the shape of ideas. Ideology, in this sense, and in the sense that we use it here, is a secular religion. – Daniel Bell, The End of Ideology
(イデオロギー全体が、広汎な現実の包括的体系であり、それは情熱を注ぎ込んだ一連の信念であり、生活様式の全体を変えようとする。このイデオロギーへの傾倒――「大義」への憧れ、あるいは、深い道徳的感情の充足――は、必ずしも利害の反映を思想の形にしたものではない。イデオロギーは、この意味で、そして我々がここで使っている意味で、世俗的な宗教なのである)-- ダニエル・ベル『イデオロギーの終焉』
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政治的伝統の暗示的意味を探究するための、1つの技巧として縮約を利用すること、即ちそれを、あたかも科学者が仮説を使用するように使用することと、政治的活動自体を、社会の整序化があるイデオロギーの予見に合致するように修正する行動として理解することは、まったく別のことであり、後者はまったく不通切なものである。なぜならその場合、まったく支持しがたい性格づけが、イデオロギーに対してなされることになり、実際我々はまったくまちがった、誤解を生じやすい手引きに引きずられていることになるからである。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、p. 145)
ここで、<縮約>(abridgment)には2つあることを確認しておくべきだろう。政治的伝統の暗示的意味を探究するために参照するための<縮約>と、一般に<イデオロギー>と称される<縮約>である。両者の違いは、前者が事実を前者が親伝統的縮約であるのに対し、後者は反伝統的縮約である。一口に<縮約>と言っても、どちらの<縮約>を用いるのかで得られるものが違ってくる。
それがまちがいであるというのは、縮約ということはたとえいかにたくみになされたとしても、その場合、ただ1つの暗示的意味だけが過度に強調され、無条件の目標と見なされがちであり、戯画的歪曲が何を明らかにするかを観察することによって得られる利点も、もし歪曲自体が、規準の役割を負わされてしまえば、消え去ってしまうからである。(同)
我々は、過去を受け入れることによってしか現実に向き合えない。過去をただ否定してしまっては、如何に素晴らしいものであったとしても、土台のない「砂上の楼閣」にしか成り得ず、いずれ崩れ去ってしまうだろう。
また誤解を生みやすいというのは、縮約それ自身は、実際には決して、政治行動で使われる知識の全体を提供するものではないからである。(同)
このことは、憲法にも言えることである。「成文憲法」は社会活動の知識全体を網羅するものではない。網は抜け穴だらけである。革命国や新興国は、明確な指針を示すために「成文法」が必要となるが、社会秩序が安定した成熟国は、「成文法」から抜け落ちたとことに如何に対処するのかが次なる課題となってくる。1つの対処法は、英国のように、「不文憲法」を採用することである。「不文法」には明快さはない。が、「成文法」のような抜け落ちがなく、歴史の機微に触れることも可能なのである。
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