オークショット「政治教育」(10) 伝統の原理
伝統の原理とは、連続性の原理である。権威は、過去と現在と未来、古いものと新しいものと、やがて現われるものとの間に分散されている。それが安定しているのは、それがいつも変化しているにもかかわらず、決して全面的に動揺することがないためである。それはまた、静寂ではありつつも、決して完全には休止することはない。伝統に属するかぎり、どんなものも完全に失なわれはしない。我々はいつでも、英気をやしなうために過去をふり返り、伝統の中でも最も遠くへだったた要素からさえ、何か時局に適ったものを得るのである。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、p. 149)
<伝統>とは、現在を経て未来へと時と共に流れて行く過去からの「送り物」である。が、ここで注意すべきは、<伝統>は、必ずしも正しいものであるわけではないし、美しいものであるとも限らない。中には時代にそぐわなくなった伝統もあるだろう。そのことを理解せず、ただ<伝統>を旧套墨守(きゅうとうぼくしゅ)するだけでは、やがてその<伝統>は形骸化し、命脈を保てなくなってしまうに違いない。
もし伝統ということの、つまり伝えのこすということの、唯一の形式が、われわれのすぐまえの世代の収めた成果を墨守して、盲目的にもしくはおずおずとその行きかたに追従するというところにあるのなら、「伝統」とは、はっきりと否定すべきものであろう。われわれは、このような単純な流れが、たちまちにして砂中に埋もれてゆくさまを、たびたびまのあたりにしてきたのである。それに新奇は反復にまさるものである。伝統とはこれよりはるかに広い意義をもつことがらである。それは相続するなどというわけにゆかないもので、もしそれを望むなら、ひじょうな努力をはらって手に入れなければならない。
伝統には、なによりもまず、歴史的感覚ということが含まれる。これは25歳をすぎてなお詩人たらんとする人には、ほとんど欠くべからざるものといっていい感覚である。そしてこの歴史的感覚には、過去がすぎ去ったというばかりでなくそれが現在するということの知覚が含まれるのであり、またこの感覚をもつ人は、じぶんの世代を骨髄のなかに感ずるのみならず、ホメロス以来のヨーロッパ文学の全体が――またそのうちに含まれる自国の文学の全体が――ひとつの同時的存在をもち、ひとつの同時的な秩序を構成しているという感じをもって筆をとらざるをえなくなるのである。
この歴史的感覚は、時間的なものばかりでなく超時間的なものに対する感覚であり、また時間的なものと超時間的なものとの同時的な感覚であって、これが作家を伝統的ならしめるものである。そしてこれは、同時にまた、時の流れのうちにおかれた作家の位置、つまりその作家自身の現代性というものをきわめて鋭敏に意識させるものでもあるのである。(T・S・エリオット「伝統と個人の才能」:『エリオット全集』(中央公論社)第5巻 深瀬基寛訳、pp. 6-7)
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