オークショット「歴史家の営為」(2)3つの世界の読み方
さて、提案されていない他の方法がまだあるかもしれないのはもちろんだが、しばらくの間最も支持を受けている候補は、過去の事象を一般法則の例として表わすことにより、それを理解しようとする探求である。この種の思考がどのようにして実りある帰結に達し得るのか、私自身はわからない。しかし少なくとも明らかなのは、それが自明とは到底言えない諸前提に依拠していることである。したがってはたしてそれが結局実りある方法であり得るかどうかは、我々が納得するほど、その諸前提が裏付けられるか否かに懸かっているだろう。さらに、ここで求められているのは、現状の歴史的思考では過去が完全に理解されるなど、原理上あり得ないという論証だけではない。現状の「歴史」を凌駕すると同時にその代わりを務め得る、過去に関する思考法も求められているのである。(オークショット「歴史家の営為」(勁草書房)、p. 163)
「歴史的」事象(event)とは、何にせよ、記述された有様(ありさま)で起きたと、(それがある探求方法の帰結であることにより)信憑(しんぴょう)するよう保証された出来事(happening)なのである。(同、p. 164)
happening は「たまたまの出来事」、event は「重要な出来事」であるから、歴史に刻まれるのは event の方である。
歴史家は人間行為の道徳上の正邪に関与する者でなく、道徳的是非・賞賛非難の言明は歴史家の著述においては不適当である(同、p. 166)
詰まり、歴史家は本来、「価値中立」的存在であり、「没価値」的でなければならないということである。
いまや観て取らなければならないのは、「過去」が、眼前に起こる事象から我々が自分で作り出す構成物であるということである。ちょうど現在の事象をこれから起こるだろうことの証拠として理解するときに「未来」が現れるように、今の出来事を既に起こったことの証拠として理解するとき、「過去」と呼ばれるものが現れる。要するに(我々の直接の関心に話を限定するならば)「過去」は、現在の世界をある特定の仕方で理解した結果である。(同、p. 172)
「現在」は「過去」の結果であり、「過去」は「現在」の原因である。「過去」と「現在」は原因と結果の関係、すなわち、「因果関係」にある。
「過去」とは、「現在」を読むひとつの方法である。しかしそれはもちろん既に起きた事象の証拠として現在の事象を理解するような世界の読み方なのだが、同時に過去の事象に対する様々な態度を表示している読み方でもある。そこで、(過去の事象について話し書いた人々の発言を導きとすべきならば)我々にとり利用可能な3つの重要な態度が実践的、科学的そして観照的と呼ばれるだろう。(同、p. 173)
オークショットの言う<実践的態度>とは、「主観」的なものの見方であり、<科学的態度>が「客観」的なものの見方と言えるだろう。が、
過去に対する「科学的」態度など、事実あり得ない。科学理論に現れる世界は、無時間的な世界、すなわち現実の諸事象からでなく仮定的な諸状況からなる世界だからである。(同、p. 175)
「科学的」態度があるとすれば、<イデオロギー>に基づくものと言われるのかもしれない。
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