オークショット「保守的であるということ」(6)「改新=改善」とは限らない

我々の世界では、何もかもが止むことなく進歩させられており、生ずべき進歩によって消滅させられるおそれのないものは1つもなく、人間自身を除けばすべてのものがその寿命を絶えず縮めている。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 207)

 歩を進めるという一般的な意味ではなく、あるべき「完成像」に近付くという意味の<進歩>の観念「進歩史観」に我々は囚(とら)われてしまっているのだ。「進歩史観」は、変化は良き事、すなわち<進歩>なのであって、過去は価値無き低劣なるものとして消去される。

敬虔(けいけん)さははかないものであり、忠実さも束の間のものである。また変化の速さは、我々が何に対してもあまり深く愛着を抱かないよう警告している。(同)

 <愛着>は、変化に対する制動であり、<進歩>の妨げである。<進歩>にあっては、現状は否定されるべきものである。だから、今在る何かに<愛着>があっては、先へ進めなくなってしまうのである。

我々は何事でも、その帰結が何であろうと一度は進んで試みようとする。個々の行動様式は競って「最新の」ものであろうとし、まるで自動車やテレビのように、道徳的信念や信仰が棄てられている。我々の目は、常に最新型のものへと向けられているのである。ものを見るということは、即ち、今あるものの場所にこの先何が来ることになるのだろうか、と想像することであるし、ものに触れるということは、即ち、その形を変えることである。この世界が今持っている形状や性質は、いかなるものであれ、我々の望むほどには長続きしない。また、先頭を進んで行く者達の持つ進取の気性や活力は、後ろの者達にも伝わっていく。「我々はみな、同じ一つのところへ追いたてられていく」のであり、足が軽やかさを失ってしまった時でも、その集団の中に自分自身のいるべき場所を見出すのである。(同)

 が、何であれ「新しいものは良いものだ」と考えるのは軽率である。改新が必ずしも「改善」、「改良」、「改正」となるとは限らない。場合によっては「改悪」だということも有り得るのである。

保守性とは、人間の行動の全領域を包含することのできる「進歩志向的」な態度に対して、偏見にとらわれた敵意を示すものではなく、広範で重要な領域における人間の活動に対して、唯一適合的な性向なのだということである。また、この性向が抜きん出て強い人は、もっぱら保守性のみが適合的であるような諸活動に携わることの方を好む者として、現れてくるのであり、自己の保守主義を人間のあらゆる活動に対して無差別に押し付けようとする傾向を有する者として、現れてくるわけではない。(同、p. 208

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