オークショット「政治教育」(12)伝統理解と会話術の習得

政治教育は、単に伝統を理解するに至るということだけでなく、どのようにして会話というものに参加すべきか、を習得することを含んでいる。つまりそれは、我々が生涯不動産権をもつ遺産の伝授であると同時に、その暗示的意味の探究でもある。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、p. 149)

 政治には、伝統理解と会話術が必要であり、政治教育とはこの2つを身に付けるためのものでなければならないということだ。

政治教育は、伝統を享受し、我々の先輩たちの行動を観察し、模倣することにはじまる。我々が目をあけた時、我々の前にひろがる世界の中で、このことに寄与しないものは、ほとんどあるいはまったく存在しない。我々は、現在を意識するや否や、過去と未来を意識する。我々は、政治についての本に興味をもつ年頃よりもずっと以前から、我々の政治的伝統に関する、かの複雑・錯綜した知識を獲得しつつあり、それなくしては、いつか本を開いてみても、それを理解することなどできないであろう。(同、p. 150

 教育は<模倣>に始まる。よく「学ぶ(まなぶ)」とは、「まねぶ」、すなわち、「まねる」ということに由来すると言われる。詰まり、教師・師匠を真似て教養や技術などを身に付けるということである。

我々が理解することを学ばなければならないものは、政治的伝統であり、行動の具体的様態なのだ、ということを考慮することである。そしてそれ故、学問的な水準では、政治の研究は、1つの歴史研究たるべきであり、――それもなによりまず第1に、それが過去に関わるベきだから、という理由からではなく、我々が具体的な細部を問題にせねばならない、という理由からである。(同、pp. 150-151

 政治は、伝統に棹差すことが必要である。が、しっかり伝統が理解出来ていなければ、自分では伝統に棹差しているつもりでも、ただ流されてしまっているだけということにもなりかねない。だから、伝統の源たる歴史を研究することが欠かせないのである。

たしかに、深くその根を過去の中におろしていないようなものは何も、政治的活動の伝統の現在の表層にも現われはしないし、それが存在するに至るのを十分に観察しなければ、その重要性への手がかりをしばしば見落すことになるだろう。だからこそ、本格的な歴史研究は、政治教育の不可欠の部分をなすのである。(同、p. 151

 薄っぺらな伝統理解では、<伝統>と<因襲>が区別できずに、行動を誤りかねない。歴史を深く探究することが求められる所以(ゆえん)である。

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