ル・ボン『群衆心理』(1) ~<群衆>の登場~
「人は集団になると理性を失って凶暴化する」。その事例たるや、恐らく枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がないほどであろう。学校における「いじめ」問題もその典型である。
19世紀末、「群衆」について考察した一人の人物がいた。フランス人ギュスターヴ・ル・ボンがその人である。ル・ボンは心理学、社会学、物理学に通じ、考古学や人類学に関する執筆も行なっているまさに博学多識の士と呼ぶに相応しい存在である。
今回はル・ボン著『群衆心理』を取り上げる。
幾多の文明は、これまで少数の貴族的な知識人によって創造され、指導されてきたのであって、決して群衆のあずかり知るところではなかった。群衆は、単に破壊力しか持っていない。群衆が支配するときには、必ず混乱の相を呈する。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 19)
<群衆>は、ずっと社会の後塵(こうじん)を拝してきた。が、1789年に「フランス革命」が起こり状況は一変する。<群衆>が一躍社会の表舞台に躍り出てきたのである。<群衆が支配するときには、必ず混乱の相を呈する>のは確かだろう。が、<群衆>の動向が社会の帰趨(きすう)を握る時代がこの革命によってもたらされたことは間違いないのではなかろうか。
およそ文明というもののうちには、確定した法則や、規律や、本能的状態から理性的状態への移行や、将来に対する先見の明や、高度の教養などが含まれている。これらは、自身の野蛮状態のままに放任されている群衆には、全く及びもつかない条件である。群衆は、もっぱら破壊的な力をもって、あたかも衰弱した肉体や死骸の分解を早めるあの黴菌(ばいきん)のように作用する。文明の屋台骨が虫ばまれるとき、群衆がそれを倒してしまう。群衆の役割が現われてくるのは、そのときである。かくて一時は、多数者の盲目的な力が、歴史を動かす唯一の哲理となるのである。(同)
文明には文明と呼ばれるに足る所以(ゆえん)がある。ル・ボン言うところの<確定した法則や、規律や、本能的状態から理性的状態への移行や、将来に対する先見の明や、高度の教養など>がそれに当たるだろう。<群衆>は、それらが自分たちを拘束する柵(しがらみ)と見做(みな)して「破壊」することに精を出す。衝動が抑えられないのが<群衆>の性(さが)なのである。
群衆という語は、全く別の意味をおびる…意識的な個性が消えうせて、あらゆる個人の感情や観念が、同一の方向に向けられるのである。一つの集団精神が生れるのであって、これは、恐らく一時的なものではあろうが、非常にはっきりした性質を示すのである。そのときこの集団は、ほかにもっと適当ないい方がないので、組織された群衆、いや何なら、心理的群衆とでも名づけよう、ともかくそういうものになる(同、p. 26)
人は群れて集団を成せば、そこに1つの<精神>が生じ、<意識的な個性が消えうせて、あらゆる個人の感情や観念が、同一の方向に向けられる>。これが「群衆心理」というものである。
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