ル・ボン『群衆心理』(4) ~<群衆>は保守的か?~

 群衆は、自ら真理あるいは誤謬(ごびゅう)と信ずることに何らの疑いをもさしはさまず、他面、おのれの力をはっきりと自覚しているから偏狭であるに劣らず横暴でもある。個人ならば、反駁(はんばく)や論難を受けいれることができる。しかし、群衆は、それらに堪えられないのである。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、pp. 64-65)

 我々は神ではない。したがって我々の判断に絶対ということはない。だから何が正しくて何が間違っているのかを判断する際、「懐疑」することがどうしても必要となる。懐疑には理性が要(い)る。が、<群衆>は理性を放棄している。だから自分たちの判断に寸毫(すんごう)も疑いを差し挟まず、さも絶対的なものだと信じて傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な振る舞いに立ち至るのである。

 群衆は、弱い権力には常に反抗しようとしているが、強い権力の前では卑屈に屈服する。権力の作用か、あるいは強くあるいは弱く働く間歇(かんけつ)的なものであるときには、常にその極端な感情のままに従う群衆は、無政府状態から隷属状態へ、隷属状態から無政府状態へと交互に移行するのである。(同、p. 66

 <群衆>は、「衆を頼んで」威勢が良いだけで、そこに本質的な強さがあるわけではないし、信念があるわけでもない。だから、相手が弱いとみるや強く出るが、相手が強いと分かると一転「しゅん太郎」と化してしまう。<群衆>は、「暴徒」にも「奴隷」にもなり得る。そのことはナチスドイツの例を挙げるまでもないだろう。

反抗心、破壊心の激発は、常に極めて一時的なものである。群衆は、あまりにも無意識に支配され、従って幾百年にも及んで受けつがれてきた影響をあまりにも受けているために、極度に保守的な態度を示さざるを得ないのである。群衆は、そのまま放任されていても、やがて自己の混乱状態に飽きて、本能的に隷属状態のほうへ赴くのである。(中略)群衆は、根強い保守的本能を具(そな)えていて、あらゆる原始人のように、伝統に対しては拝物教的敬意をいだき、現実の生存条件を改めかねない新しい事実を無意識に嫌悪する。(同、pp. 66-67

 果たして<群衆>は<保守的>だと言えるのだろうか。私はそれは歴史の「蓄積」如何にあると思っている。例えば、シナ(China)は「易姓革命」を繰り返し、前史が上書き消去され続けてきた国であるから保守すべきものがない。一方、万世一系の皇室を戴(いただ)く日本は歴史が堆積し蓄積されてきた国であるから保守すべきものが多々存在する。<群衆>の保守性は国の歴史の在り方によって大きく異なるように思われる。

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