ル・ボン『群衆心理』(3) ~単純で極端な<群衆>感情~

 正確に物を見る働きが失われ、かつ現実の事象が、それと関係のない錯覚にとってかわられるためには、群衆は多人数であるを要しない。数人の個人が集れば、群衆を構成する。そして、その個人が優秀な学者である場合でも、その専門外の事柄になると、群衆のあらゆる性質をおびるのである。各自の有する観察力と批判精神とが消えうせてしまうのである。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、p. 50)

 物事の根拠は<群衆>にあって個人にはない。自分が<群衆>の一員である以上、<群衆>を批判することなど滅相もないことである。<群衆>の中にいる限り、<群衆>の論理に従う以外に道はない。否、自分が<群衆>と共にあるのがこの上なく心地良いのである。

 群衆の現わす感情は、よかれ悪しかれ、極めて単純でしかも極めて誇張的である。(中略)群衆の強烈な感情は、特に、異なった分子から成る異質の群衆において、責任観念を欠いているために、さらに極端となる。罰をまぬかれるという確信、群衆が多人数になればなるほど強まるこの確信、また多数のために生ずる一時的ではあるが強大な力の観念、それらが、単独の個人にはあり得ない感情や行為をも、集団には可能ならしめるのである。群衆のなかにはいれば、愚か者も無学者もねたみ深い人間も、おのれの無能無力の感じを脱し、その感じにとってかわるのが、一時的ではあるが絶大な暴力の観念なのである。(同、pp. 60-61

 個人の感情は本来複雑多岐なものだろうが、<群衆>の感情は「最大公約数」的に極めて単純かつ明快なものと成らざるを得ない。そして単純明快であるがゆえに極端に走りやすい。また、責任は<群衆>にあって個人にはないと考えられるので、ともすれば個々人は「ブレーキの利かぬ暴走列車」となりかねない。

 群衆は、ただ過激な感情にのみ動かされるのであるから、その心を捉えようとする弁士は、強い断定的な言葉を大いに用いねばならない。誇張し断言し反覆すること、そして推論によって何かを証明しようと決して試みないこと、これが、民衆の会合で弁士がよく用いる論法である。(同、p. 62

 これは「<群衆>の感情に強く働きかけるためには、<誇張><断言><反復>という手法を用いよ」という指南のように聞こえなくもない。まさに「嘘も百回言えば本当になる」という体(てい)である。

 群衆は、単純かつ極端な感情しか知らないから、暗示された意見や思想や信仰は、大雑把に受けいれられるか、斥(しりぞ)けられるかであり、そして、それらは、絶対的な真理と見なされるか、これまた絶対的な誤謬(ごびゅう)と見なされるかである。推理によって生じたのではなく、暗示によって生み出された信仰とは、常にこのようなものである。(同、p. 64

 <群衆>にとって必要なのは、精(くわ)しい意見でも深い思想でも篤(あつ)い信仰でもなく「大枠」である。「大枠」が<群衆>内で共有されていれば細かな差異は問題とならない。否、いちいち小差を気にしていては<群衆>は成立しない。

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