ル・ボン『群衆心理』(2) ~「自動人形」~
精神の意識的生活は、その無意識的生活にくらべれば、極めて微弱な役目をつとめているにすぎない。最も明敏な分析家、最も炯眼(けいがん)な観察家でも、自分の行為を導く無意識的動機は極めてわずかしか発見することができない。われわれの意識的行為は、特に遺伝の影響によって形づくられた無意識の基盤から起こるのである。この基盤は、種族の精神を構成する無数の遺伝物を含んでいる。われわれの行為の明らかな原因の背後には、われわれの知らない原因がひそんでいる。われわれの日常行為の大部分は、われわれも気づかない、隠れた動機の結果なのである。(ル・ボン『群集心理』(講談社学術文庫)櫻井成夫訳、pp. 30-31)
<意識>とは謂(い)わば「氷山の一角」である。つまり、我々の行為の多くは<無意識>によって支えられているということだ。左右されていると言っても良い。因(ちな)みに、マイケル・ポランニーはこの<無意識>を言葉に出来ない知、「暗黙知」と呼んだ(『暗黙知の次元』)。
群衆中の個人は、単に大勢のなかにいるという事実だけで、一種不可抗的な力を感ずるようになる。これがために、本能のままに任せることがある。単独のときならば、当然それを抑えたでもあろうに。その群衆に名目がなく、従って責任のないときには、常に個人を抑制する責任観念が完全に消滅してしまうだけに、いっそう容易に本能に負けてしまう(同、p. 33)
最近の流行りで言えば「同調圧力」が<群衆>に働くということである。多くの成員が「同調圧力」に靡(なび)き、自ら「考える」という自主性を放棄する。
意識的個性の消滅、無意識的個性の優勢、暗示と感染とによる感情や観念の同一方向への転換、暗示された観念をただちに行為に移そうとする傾向、これらが、群衆中の個人の主要な特性である。群衆中の個人は、もはや彼自身ではなく、自分の意志をもって自分を導く力のなくなった一箇の自動人形となる。(同、p. 35)
<群衆>の中にあっては、個人は<意志>を持たぬ<人形>のごとき存在である。この<人形>は<群衆心理>によって突き動かされる<自動人形>(オートマタ)である。
群衆に暗示を与え得る刺戟は、多種多様であり、しかも、群衆は常にそれに従うのであるから、その気分は、極度に動揺しやすいのである。群衆は、一瞬のうちに残忍極まる凶暴さから、全く申し分のない英雄的行為や寛大さに走る。群衆は、容易に死刑執行人となるが、またそれにも劣らず容易に殉難者ともなるのである。(同、p. 42)
<群衆>は、自らが置かれた環境に依存する「浮草」のような存在であるから、「責任」意識もなければ「節度」という発想すらない。よって暴走を抑えるものは何もない。だから一度<群衆>が暴走し始めたら熱狂が覚めるまで待つしかないということになる。
コメント
コメントを投稿