オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(46)前提の矛盾

ホッブズの記述には、自家撞着と思われる部分が少なくない。オークショットは、これを整理する。

自然においては「万人はあらゆるものに対して――他人の身体に対してすらも――権利を持っている。」また自分自身の判断に従って自分を治め、「何でも自分の好むことをして」、自分がふさわしいと思ういかなる仕方でも自分を保全する権利を持っている。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 337

the condition of Man, … is a condition of Warre of every one against every one; in which case every one is governed by his own Reason; and there is nothing he can make use of, that may not be a help unto him, in preserving his life against his enemyes; It followeth, that in such a condition, every man has a Right to every thing; even to one anothers body. And therefore, as long as this naturall Right of every man to every thing endureth, there can be no security to any man, (how strong or wise soever he be,) of living out the time, which Nature ordinarily alloweth men to live.-- Thomas Hobbes, LEVIATHAN: PART I. CHAPTER XIV. OF THE FIRST AND SECOND NATURALL LAWES, AND OF CONTRACTS

(人間の状態は…万人に対する万人の戦争状態であり、この場合、万人は自分自身の理性によって統治され、敵から自分の命を守る際、利用できるものであれば、自分に役立たないようなものは何もない。要するに、このような状態では、万人は万物に対し、お互いの体にさえ、権利を持つということだ。したがって、万物に対する万人のこの自然権が存続する限り、(どれほど強く、賢くても)、自然が通常、人に生きることを許す時間を全うする保証は誰にも有り得ないのである)―ホッブズ『リヴァイアサン』第1部 第14章 第1自然法、第2自然法と契約について

だがその一方…自然においては万人は平和を求めて努力すべき「自然的」な義務を持っている。その義務は万能の神の命令である自然法が課したものである。(オークショット、同)

And consequently it is a precept, or generall rule of Reason, “That every man, ought to endeavour Peace, as farre as he has hope of obtaining it; and when he cannot obtain it, that he may seek, and use, all helps, and advantages of Warre.” The first branch, of which Rule, containeth the first, and Fundamentall Law of Nature; which is, “To seek Peace, and follow it.” The Second, the summe of the Right of Nature; which is, “By all means we can, to defend our selves.” – Ibid.

(したがって、理性の教え、ないしは一般則であるのは、「万人は、平和が手に入る望みがある限り、平和に努めるべきであり、手に入らないときは、戦争のすべての援助と利点を求め、利用してよい」ということだ。この規則の第1の部分には、最初の、そして根本的な自然法が含まれている。それは、「平和を求め、これに従うこと」である。2番目は、自然権の要約であり、それは、「可能なすべての手段で、自分自身を守ること」である)

 第1は、<自分を保全する権利>と<平和を求めて努力すべき「自然的」な義務>という矛盾である。成程、ホッブズは、この矛盾を前提として論を展開しているのであるが、やはりここには相当な無理があることは否めない。が、この無理を承知の上で読み進めなければホッブズが何を言いたいのかは分からない。無理を承知できないのであれば、どうしてホッブズが西洋思想史に大きな足跡を残したのかは分からず仕舞いになるだけである。

 もう少し得心(とくしん)のゆく前提を立てて欲しいと願うのは「無い物強請(ねだ)り」というものであって、たとえ不十分な前提であったとして、そうである「かのように」筆者に寄り添って読み進めることもまた、読者の心得として必要なのではないかと思われる。

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