オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(44)限定された自然法
「自然法はホッブズにとって、全人類を平和を求めて努力する義務にしばりつける、本当の意味での法律の必要十分条件を持っているのか?」あるいは(別の形態では)「平和を求めて努力すべき義務は万人に拘束力を持つ、『自然的』な、契約によらない義務なのか?」という質問には「否」と答えなければならない。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 336)
簡単に言えば、ホッブズはこんな乱暴な議論はしていないということである。
だがこの問いは、その問いよりも適切な質問は、おそらく「ホッブズはいかなる状況において自然法がこれらの特徴を獲得すると考えていたのか?」と「一体誰にとって、平和への努力は単に生存を熱望する人々にとっての理性的行動であるのみならず道徳的に拘束する命令でもあるのか?」ではないか、とも示唆した。というのも、ホッブズは我々の思考を別の方向におし進めるようなことは大して言わなかったとはいえ、彼にとって自然法は特定の状況でしかこれらの特徴を持たず、そのような人々に対してしか義務を課さないものだったことは明らかと思われるからである。(同)
ホッブズは、特定の状況における<自然法>を対象としていたのである。<自然法>は、状況次第で千差万別であり、これを一括りにして普遍的に述べるわけにはいかないということである。
一般的に、このような状況は、平和を求めて努力することが実定法――それを作ったのが人間であれ神であれ――のルールになった状況であり、一般的に、拘束される人は、この法の創造者を知り、彼がそれを作る権威を承認した人々だけである。
このことは私が道徳的義務に関するホッブズの最も深い信念であると考えるものと調和するように思われる。それはすなわち、「自分自身の何らかの行為から生じないような義務が本人に課されること」はありえない、という信念である。(同、pp. 336-337)
<契約>も<承認>も無く、勝手に拘束されたり、義務が課されたりするようなことはおかしいということである。
この原理の趣旨は、ホッブズにとっては、義務を課される者による選択が義務を作り出すということではなく、選択(契約であれ承認であれ)のないところには既知の立法者がおらず、従って本当の意味での法も義務も存在しない、ということである。そしてそれは「自然的」な(すなわち、契約によらない)義務の可能性を排除するように私には思われる原理である。(同、p. 337)
契約であれ承認であれ、臣民の<選択>がなければ、統治者に立法権限が生じないので、臣民が拘束され義務を課されるような法もまた無いということである。
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