オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(45)交錯するホッブズの説明

必要とされる「行為」は、神が人間の行動について「摂理」を働かせていると信ずることにおいて神を承認することかもしれない。だが国家の中に生きている人々にとって、それは国家の主権者を創造し彼に授権する行為である。なぜならそのような人々にとっては、この主権者の命令として彼らに影響しないような義務は存在しないからである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 337)

 前者は、神を信じ承認する宗教的行為であり、後者は、国家の主権者として神を承認し授権する政治的行為だと考えられる。

人間をとりまく環境のその他の状態に何が属し、何が属していないにせよ、国家は疑いもなく、

①本当の意味での法律(すなわち国法)があり、

②この法律だけが唯一の本当の意味での法であり、

③平和を求めて努力することがあらゆる臣民の義務であるところの状態である。(同、p. 337

It is therefore manifest, that wee may dispute the Doctrine of our Pastors; but no man can dispute a Law. The Commands of Civill Soveraigns are on all sides granted to be Laws: if any else can make a Law besides himselfe, all Common-wealth, and consequently all Peace, and Justice must cease; which is contrary to all Laws, both Divine and Humane. -- Thomas Hobbes, LEVIATHAN: PART III. CHAPTER XLII. OF POWER ECCLESIASTICALL

(したがって明白なことは、牧師の教義に異議を唱えることはできても、法に異議を唱えることはできないということだ。俗世間の主権者の命令は、あらゆる面で、法として認められる。もし他の誰かが我を忘れ法を作ることができるなら、すべてのコモンウェルス、ひいてはすべての平和と正義は消滅するに違いない。それは、神の法、人間の法、両方のすべての法に反するからである)―ホッブズ『リヴァイアサン』第3章 第42章 教会権力について

今見てきたホッブズ解釈によると、契約によるこの義務は、独立して永遠に効力を有する自然法が前もって全人類に課していた「自然的」な義務から派生したものであるということになる。だがそれは神や「理性」や人間の知識や「ことばの意味」や道徳的義務の条件についてのホッブズの結論の多くを無視しているので、それが説明することは、説明し残したことに比べると大したことはなくて、十分な説明として受け入れることはできない。

そしてこれらの根本的な矛盾に加えて、この解釈に反映している誤解の一番の温床となったのは、ホッブズが人類の「保全と防衛に貢献するものについての諸定理」としての「自然法」について述べたこと(すなわち、自然の理性はそれらを手に入れられ、どんなに貧弱な知性でも疑いもなくそれらを理解できるということ)と、彼が道徳的に拘束する命令としての「自然法」について述べたこととの間の混同(それについてはホップズに責任がある)――教授する理性と命令する法律との間の混同――である。(同、pp. 337-338

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