オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(48)ホッブズ擁護

自然法と聖書の両者の独立した権威…前者の権威は理性に基づき、後者の権威は啓示に基づく…国家のメンバーにとって、自然法の権威は国家の主権者の是認に基づき、聖書の教えは国家の主権者がそれだと言ったものである(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 340)

 オークショットは、これを5つ目の矛盾として挙げるが、私はこのような整理の仕方で問題ないと考える。

第1の自然法を記述するために、理性の「指針」という言葉を、理性の「一般的ルール」という表現に対する選択肢として使っているが、その説明の最後では、自然法が指図の性格を持つことはその合理性とは全然関係がないと言っている。(同)

it is a precept, or generall rule of Reason, “That every man, ought to endeavour Peace, as farre as he has hope of obtaining it; and when he cannot obtain it, that he may seek, and use, all helps, and advantages of Warre.” The first branch, of which Rule, containeth the first, and Fundamentall Law of Nature; which is, “To seek Peace, and follow it.” The Second, the summe of the Right of Nature; which is, “By all means we can, to defend our selves.”-- Thomas Hobbes, LEVIATHAN: PART I. CHAPTER XIV. OF THE FIRST AND SECOND NATURALL LAWES, AND OF CONTRACTS

(これは理性の教訓または原則である。「万人は、平和を得る見込みがある限り、平和に努めるべきであり、平和が得られないときは、戦争のすべての助力と利点を求め、利用してもよい」。規則の第1の部分には、「平和を追求しこれに従う」という自然の第1の基本法が含まれている。第2は、自然の権利の総体、それは、「あらゆる手段で、自らを守ること」である」)―ホッブズ『リヴァイアサン』第1部 第14章 第1の自然法と第2の自然法と契約について

 自然法は、<理性の教訓または原則>であるとホッブズは言うわけである。

These dictates of Reason, men use to call by the name of Lawes; but improperly: for they are but Conclusions, or Theoremes concerning what conduceth to the conservation and defence of themselves; whereas Law, properly is the word of him, that by right hath command over others. But yet if we consider the same Theoremes, as delivered in the word of God, that by right commandeth all things; then are they properly called Lawes. – Ibid., CHAPTER XV. OF OTHER LAWES OF NATURE

(これら理性の命令は、法の名で呼ばれるのだが、不適切である。というのは、理性の命令とは、只の結論、または自分自身の保全と防御をもたらすものに関する定理であるのに対し、法は、正に、権利によって他者を指揮する者の言葉だからである。しかし、もし我々が同じ定理を、権利によって万事を命令する神の言葉の中で述べられたものと考えるなら、法と呼ぶに相応しい)―同、第15章 他の自然法について

 ここでホッブズが主張しているのは、<理性の命令>を法と称するのは不適切であるが、神の言葉の中で述べられた定理と考えるなら法と呼ぶに相応しいと言っているわけである。オークショットが指摘する<合理性>についてはよく分からないが、ホッブズの主張が矛盾しているとは思われない。

「自然法」という言葉を2つのものを指示するために使っている。その1つは人間の自己保存についての人間の理性の仮説的結論であり、もう1つは神の摂理を信ずる人々に神が謀する義務と、無神論者(?)と狂人と子供を除くあらゆる人々に神が課したと言われる義務である。これは混乱させようという意図をほとんど白状しているような語り方である。(オークショット、同)

 確かに、このホッブズの言葉遣いは、今から思えば不適切と言われても仕方ない。が、ホッブズが言いたいのは、これはそれほど明らかだということである。「自然法」に内的なものと外的なものの二面性を見ること自体が間違っているわけではない。

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