ハイエク『隷属への道』(51) 集産主義国は国際社会の不穏分子

様々な国がそれぞれの国家的規模によって独自に行なう多様な経済計画化は、それらが複合された時の結果から見ると、純粋に経済的な観点から見ても、有害なものとならざるをえず、しかもそれに加えて、深刻な国際的摩擦を発生させざるをえないということである。

今さらとりたてて強調するまでもないが、それぞれの国が、自国の直接的な利益にとって望ましいと思われる政策なら、他の国にどんな被害を与えようが、何であれ実行してもかまわないということになれば、国際的秩序や持続的な平和が達成される望みはほとんどなくなってしまうことは明らかだ。

だが、多くの種類の経済計画化は、計画当局がうまく外からの影響というものを遮断できた時に、初めて実現可能なものであることもまた言うまでもない。したがって、そういった計画化が行なわれていけば、国境を越えた人や物の移動がますます制限されるようになってしまうことは必然なのである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、pp. 304-305

 統制経済が成立するためには、対外的な経済関係を絶ち自国内のみで行うか、周辺国も巻き込んで統制経済化するしかない。

 より潜在的ではあるが、現実性が少ないわけではない国際平和への危険が存在する。それは、たとえばある国で国民全員を経済的に平準化するような政策が行なわれたり、国家規模での計画化により利益が衝突するいくつかの経済ブロックが作られたりすることによって、生まれてくるものである。前者の点に関して見れば、国境を明確な境として人々の生活水準がはっきりと異なってしまったり、ある国の国民となることで他の国民となった場合とはまったく異なる富の配分を得られるというようなことは、必要なことでも、望ましいことでもない。後者に関して言えば、ある国の資源が全部その国の独占的所有とされ、国際的な経済交流は個人間の流通でなく国家を交易主体とした流通へと統制されていくようになれば、それは必ず国家間の摩擦や他の国への羨望を引き起こす原因となる。(同、p. 305

 集産主義国は排他的であるので、他国と同じ決まりで経済交流を図ることは基本的に無理である。つまり、集産主義国は、国際社会にとっての「不穏分子」でしかないということである。

力に訴えることなく解決できる諸個人間の競合関係であったものを、上位の法に従う必要のない、強力で軍事力を持った国家間の闘争へと変えようとしているのである。それらの国家は、自らの行動を誰にも審判されず、従うべき上位の法も持たず、自国の直接的利益しか考慮する必要のない代表者によって運営されるものである以上、国家間の経済取引というものは、最後には力と力の衝突に終わらざるを得ない。(同、pp. 305-306

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