ハイエク『隷属への道』(49) 自由社会と道徳
物的な諸条件が人々に対してなんらかの選択を余儀なくさせるような分野で、人々が自分の行動を秩序立てていける自由が存在していること、そして、人々は、自らの良心に従って自分自身の生活を整えることに対する責任を保有していること。これこそ、道徳的感覚が発達していくことのできる唯一の環境であり、このような環境のもとで、それぞれの個人が自由な決定を下していくことによって、道徳的観念が日々新たにされていく。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、pp. 290-291)
<自由>と<責任>は表裏一体のものである。<責任>あればこそ自制心も生まれる。そして<自由>と<自制>の葛藤の中で人は磨かれ、道徳心を涵養していくのである。
自分より上位の人に対してでなく、自分自身の良心に対して責任を負うこと、強制されるからではなくて、自発的に行なうべき自分の義務を自覚していること、自分が貴重だと考えている様々な事柄のうち、どれを犠牲にするかを決定しなければならないという必要性、自分の下した決定の結果がどのようであっても、それに対して自分で責任を持つこと、といったことが、道徳という名前にふさわしい事柄のまさに本質なのである。(同、p. 291)
何かを選択するということは、それ以外の選択肢を捨てるということである。何かを選ぶとは何かを犠牲にすることによって成り立っている。だから<責任>がある。
本来の道徳は、各人が自分自身でこれが正しいと考えることは、たとえ自分の欲望を犠牲にしてもこれを行ない、また、たとえそのような行動を敵視する世論が存在していても、敢然として断行する用意があることを要求する。(同、p. 292)
「正義」や「勇気」といった道徳心は、時として<自己犠牲>を求めることもある。危険を顧みず難題に立ち向かう態度は称賛に値する。
個人の自主独立や自助、個人の責任で進んで危険を冒していく意志、そして、世間の大半の人々の意見と異なっていても自分の信念を貫き通す用意とか、隣人たちと自発的に喜んで協力していく意欲などといった美徳(同)
これらは成熟した社会にこそ見られる「徳目」である。
《徳はわれわれのうちに生まれる善への傾向とは別のもので、それよりも高尚なものであるように思われる。生れつき正しく気高い心の人は、有徳の人と同じ道を行き、その行為の中に同じ姿を現わす。けれども、徳には、幸福な素質によって、静かに、平和に、理性に従って導かれるということ以上に、なにかしら偉大で積極的な響きがある。
生れつきの温厚と寛大さから、侮辱を受けても平気でいられる人の行為は大いに美しく称讃に値するであろう。しかし、恨み骨髄に徹しながら、理性の武器を執って、狂おしいばかりの復讐の念に立ち向かい、激しい葛藤ののちにこれを仰えつける人の行為は、疑いもなく、はるかに立派であろう。前者はよい行為であり、後者は徳のある行為であろう。一方を善、他方を徳と呼ぶべきであろう。
というのは、徳という言葉は、困難と闘争を前提とするように思われるし、対立がなければ働きえないように思われるからである。おそらくそのために、われわれは神を、善良、強大、寛大、公正と呼ぶが、有徳とは呼ばない。神の行為はすべてが自然で、努力を伴なわないからである》(モンテーニュ『エセー(二)』(岩波文庫)原二郎訳:第11章 残酷について、p. 382)
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