ハイエク『隷属への道』(48) 選択の自由と道徳
道徳は必然的に個人的な行動にかかわる現象である…各個人が自分自身で決定する自由を持っていて、しかも道徳的な規範を遵守(じゅんしゅ)するため、個人的な利益を自発的に犠牲にすることを求められる分野においてだけ、道徳は存在できる(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 290)
個人の側に選択の余地があり、どれを選択するのかについての自由があればこそ「道徳」は存在する。逆に言えば、個人に選択権のない全体主義社会には、そもそも「道徳」なるものは存在しない。
個人の責任が問われないところでは、善も悪もなく、道徳的真価を試される機会も、正しいと思うことのために欲望を犠牲にすることで自らの信念を証(あか)すチャンスもない。人々が自分の利益に責任を持っていて、それを犠牲にする自由があるところにおいてだけ、人々が下す決定は道徳上の価値を持つことができるのである。(同)
全体主義社会では、個人に自由はなく、したがって、責任もない。自由がないから責任もないという意味で全体主義は平等社会なのである。
われわれは、自分のふところを痛めることなしに博愛的であろうとすることなど許されていないし、自らの選択の余地がないところで博愛的にふるまったからといって、どんな価値があるものでもない。また、善行を行なうようにあらゆる面で強制されている社会の人々は、称讃されるべきどんな資格も持っていない。(同)
<博愛>には、どこか胡散(うさん)臭いところがある。
Philanthropist, n. a rich (and usually bald) old gentleman who has trained himself to grin while his conscience is picking his pocket. – Ambrose Bierce, The Enlarged Devil’s Dictionary
(博愛主義者、慈善家(名詞)自らの良心がスリを働いている間、ニヤニヤする訓練を積んできた金持ちの(そして大抵はハゲた)老紳士)―A・ビアス『悪魔の辞典』
自由社会では、自由と自制の平衡を如何に保つのかが人として問われるのに対し、統制社会には自由がないから、自制する必要もない。唯(ただ)、上からの支持に従うだけである。自由社会には、自制が良く効いた道徳的人物もいれば、自制心が欠けた非道徳的人物もいる。一方、統制社会では自制する必要がなく、よって道徳的差異もなく、至って「平等」である。自由社会では、しばしば道徳的行為を行った者が称賛されるが、統制社会では、そもそも称賛に値する行為がない。
☆ ☆ ☆
If every
action, which is good or evil in man at ripe years, were to be under pittance
and prescription and compulsion, what were virtue but a name, what praise could
be then due to well-doing, what gramercy to be sober, just, or continent? Many there be that complain of divine
Providence for suffering Adam to transgress; foolish tongues! When God gave him
reason, he gave him freedom to choose, for reason is but choosing – John
Milton, Areopagitica
(もし、あらゆる行為が、それが成熟した人間において善であれ悪であれ、端金(はしたがね)と指示と強制の下にあるとしたら、美徳とは名ばかりで、善行によってどんな称賛があり、冷静であったり、公正であったり、自制的であることにはどんな有難うがあるのだろうか。アダムが罪を犯すのを神の摂理が許したのだと不平を漏らす者が多い。愚かな者たちよ! 神は、彼に理性を与えたとき、彼に選択する自由を与えた。というのは、理性とは選択することに他ならないからだ)――ジョン・ミルトン『アレオパジティカ』
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