オークショット「人類の会話における詩の言葉」(17)<観照>は<幸福>を生み出す源

生きているところの神から「行為する」ということが、いわんや「制作する」ということが取り除かれるならば、そこには、観照の働き以外の何が残るであろうか。してみれば、至福な活動たることにおいて何よりもまさるところの神の活動は、観照的な性質のものでなくてはならない。したがってまた、人間のもろもろの活動のうちでも、やはり最もこれに近親的なものが最も幸福的な活動だということになる。

 また、人間以外の諸動物はかような性質の活動を完全に欠如しているがゆえに幸福にあずからない、ということも1つの証左となる。つまり、神々にあってはその全生活が至福であるし、また人間にあっては神のかかる活動の何らかの似姿がそこに存しているかぎりにおいて至福なのであるが、人間以外の諸動物はいずれも全然観照的な活動に参与しないがゆえに幸福を有しない。かくして、観照の働きの及ぶ範囲に幸福もまた及ぶわけであり、しかも「観照する」ということがより多く見出だされるほど、「幸福である」こともまた著しい。付帯的にではなく、観照の働きそれ自身に即して――。(観照は即日的に尊貴な働きなのであるから。)してみれば、幸福とは何らかの観照の働きでなくてはならない。(「二コマコス倫理学」高田三郎訳:第10巻 第7章:『世界の大思想4 アリストテレス』(河出書房新社)、pp. 226-227

 <観照>は、<幸福>を生み出す源だということである。

実践の活動とは、欲求し獲得することであり、また科学の活動が、探究し理解することであるのと同様に、詩は観想であり、観想の歓びである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 269

 実践的活動や科学的活動とは異なり、詩的イメージを伴う活動は、観想(観照)的であり、この観想的活動を通して<歓び>が得られるのである。

詩が現われるのは、想像が観想的想像である時であり、つまりもろもろのイメージが、「事実」または「非事実」として認められない場合、それらが倫理的是認も否認も呼び起さない場合、それが記号として、また原因・結果として、あるいは窮極目的のための手段として読まれないで、作り出され、作り変えられ、観察され、振り返られ、楽しまれ、瞑想され、歓ばれる場合であり、イメージがただより複雑なイメージであるような、より大きなパタンへと構成されるけれども、何ら結論になど至らない場合である。(同)

 詩的イメージは、実践的なものではないので事実性が問われない。倫理的かどうかも問題とはならない。また、科学的でもないので記号的な読みがなされることもなければ、因果関係が認められるわけでもない。結論を得るために議論を煮詰めることなどしない。

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