オークショット「人類の会話における詩の言葉」(6)是認と欲求は別
実践的活動の世界は、単に意欲の相の下での世界であるのみならず、規範の相の下での世界でもある。即ち、それは単に欲求と反発のイメージから成るのみならず、是認と否認のイメージからも構成されている。
是認とは欲求するのと同じ活動ではない、また否認も反発と同一視され得ない。例えば、死はすべての反発の象徴であるが、すべての否認の象徴であるわけではない。即ち、我々は常に、我々自身の死を忌避するが、我々がそれを否認せず、それに従って行為するかもしれないような情況が存在するのである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 252)
死刑を宣告されたソクラテスは、彼を助け出そうとするクリトンに次のように言い、従容(しょうよう)として死を受け入れた。
《もしわたしたちが、正しいと信ずる理由があって、お前を死に導こうとするならば、お前もまた、これに対して、わたしたち国法と祖国とを、お前のカの及ぶかぎりにおいて、破滅に導くことを企て、しかもこの行為は正しい行為であると主張することになるのだろうか、本当に徳に心がけている人だというお前が。それとも、お前は賢すぎて、忘れてしまったのではないかね。母よりも、父よりも、その他の祖先のすべてよりも、祖国は尊いもの、おごそかなもの、聖なるものだということを。それは神々の許にあっても、心ある人々の間においても、他にまさって大きな比重を与えられているのだということを。
だから、ひとはこれを畏敬して、祖国が機嫌を悪くしている時には、父親がそうしている時よりも、もっとよく機嫌を取って、これに譲歩しなければならないのだ。そしてこれに対しては、説得するか、あるいはその命ずるところのものを何なりとも行なうのでなければならないのである。またもし何かを受けることが指令されたなら、静かにそれを受けなければならないのだ。打たれることであれ、縛られることであれ、戦争につれて行かれて、傷ついたり、死んだりするかも知れないこと′であっても、その通りにしなければならないのだ。正しさとは、この場合、そういうことなのだ》(「クリトン」田中美知太郎訳:『プラトン全集 I』(岩波書店):50-50B)
ソクラテスの例は、極端なのかもしれない。が、「欲求―反発」の次元では、「死」は受け入れられなくとも、「是認―否認」の次元では、「死」を受け入れるということが有り得るということは否定できないのではないかとも思われる。
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