オークショット「人類の会話における詩の言葉」(18)詩的イメージへの誤解

写真は(もし事件の記録をねらっているなら)「ウソをつく」こともあるけれども、詩的イメージは、何をも主張するものでないから、「ウソをつく」ことはあり得ない。形、情景、運動、性格、言語構成――これらのイメージは、「事実」と「非事実」を区別することができるような言語空間に属してはいない。それらは虚構なのだ。また、絵画や言葉や石や舞踏の動きの中の、これらの物語や記述は、虚構の出来事や情景の物語である。それらは寓話なのだ。そしてこの点についてもまた、それらは幻想でもなければ見せかけのイメージでもない。またそれらは装う行動によって作られたイメージでもないのだ。なぜなら、幻想とか、見せかけとか、装いということはすべて、「事実」への言及がなくては不可能であるから。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 273)

 <詩的イメージ>は、<虚構>の世界に属するものである。<詩的イメージ>の物語は<寓話>であるから、当然、<事実>かどうかが問われるようなものではない。

実践的、科学的、歴史的イメージにふさわしい諸研究は、詩的イメージにはふさわしいものではない(中略)

詩的イメージは、ある意味で「真」であるか「真理」の表現であることが示され得ないかぎり、理解不能であると考える人々がいる。そしてこのような要求が直面する明らかな困難は、「詩的真実」とか、他の「真理」の表現よりも深遠だとふつう考えられるような、特別製の「真理」の概念をもち込むことによって、避けられるというわけである。そればかりか詩的想像を、その中で物事の真の姿が見られる(他の活動に抜きん出た)活動と理解し、詩人をこの点で、他の人々にはない特別の才能をもつものと考える、そういう傾向が存在するのである。(同、pp. 274-275

 詩というものに対する誤信がしばしば見られるということである。

詩的想像とは、詩人が体験し、他の人々にもそれを分かち与えようと願う経験の「表現」「伝達」「再現」以外の何物でもあり得ないと、固く信じて疑わない人々がいる。そしてこの「経験」なるものは、もっぱら「情念」とか「感情」と考えられているのである。(同、p. 275

 経験や体験を言葉にして伝えるのは、何程か<事実>の伝達ということになるから、詩的活動とは言えない。

詩的想像はすべて、「美」と呼ばれた特別の性質をもつイメージを作り出す試み、と一般に信じられているのである。しかし、これらおよびこれに類したすべての考えは、私の見るところ、誤解に導くものであり、くわしい考察に耐え得るものではない。もし(私の考えるように)詩的想像が、「観想」とこれまで呼んできたものであるとすれば、これらの考えが誤りでなければならぬことは、明らかだ(同)

 何らかの意図をもって作り出されたイメージは、もはや詩的なものではないのだ。

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