オークショット「人類の会話における詩の言葉」(8)倫理的活動と奴隷道徳

一般に倫理的活動は、それぞれ目的であって他の者の欲求の単なる奴隷ではないと、他者によって承認された欲求する自己達の、さまざまの要求の間で適当な平衡を保つことであると、言えるだろう。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、pp. 253-254)

《すべての貴族道德は勝ち誇つた自己肯定から生ずるのに反して、奴隸道德は「外のもの」・「他のもの」・「自己でないもの」を頭から否定する。さうしてこの否定が即(すなわ)ち奴隸道德の創造的行爲なのである。評價眼のこの逆倒――自己自身へ歸(かえ)る代わりに外へ向ふこの必然的な方向――これこそはまさしく《反感》(ルサンチマン)の本性である。奴隸道德が成立するためには、常に先ず1つの對境(たいきょう)、1つの外界を必要とする。生理學的に言へば、それは一般に行動を起すための外的刺激を必要とするのである――從つて奴隸道德の行動は根本的に反動である》(ニーチェ『道徳の系譜』(岩波文庫)木場深定訳、p. 37

とニーチェは言った。が、オークショットの言う<倫理的活動>は、二-チェが言う<奴隷道徳>ではなく、社会秩序を維持するための平衡感覚のようなものではないかと思われる。

しかしこの一般的性格は、常にある特定の平衡として現われるのであり、ある「倫理性」は他の倫理性とこの平衡が成り立つ水準という点で、また平衡の質という点で、異なるのが常である。例えば「ピューリタン」の倫理では、自己の自立性の水準と平衡の質は、ともすれば非難をかうほどであり、定められた平衡からほんのわずかはずれることも拒否し、共感の領域を少しでも拡大することを許容するようないかなる傾向をも排除するように見える。(オークショット、同、p. 254

 <倫理性>は、固定的なものではない。社会を構成する<倫理性>が異なれば、自ずと平衡の中身は違ってくる。

 実践的生活に関わる仕事を遂行する言語は、記号的言語である。その言葉と表現は、多くの同意にもとづく記号であり、比較的固定的な厳密な用法をもつがゆえに、また共鳴的でないがゆえに、信頼できる意志疎通の手段として役立つのである。模倣によって学ばれねばならないものが、その言語である。(同、p. 254

《(言語記号)はなによりも、記号表現と記号内容との結びつきとして捉(とら)えられた…この記号表現と記号内容は、それぞれ1つの聴覚映像と1つの概念――たとえば橋なら橋という語のハシという音(厳密にはその形式)と橋の概念(あるいは表象)――として表裏をなしている》(中村雄二郎『述語集』(岩波新書)、p. 43



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