オークショット「人類の会話における詩の言葉」(19)詩的イメージは虚構の世界に属するもの

どんな「真実」を詩的イメージが表現していようとも、それは実践的、科学的、歴史的な真理ではない(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 275)

実践的に不可能であったり、科学的誤りや歴史的時代錯誤を含むような詩的イメージを非難することは、どろぼうのとがで盗品を非難するように、物事の本性にはずれている(同)

「真」とは命題に関わるものである。そして、実践的言明も、科学的あるいは歴史的言明が常にそうであるように、命題を構成することができるのに対して、詩的イメージは、決してかかる性格をもたない(同)

詩的想像が見ぬくのは、知覚が欲求や評価や好奇心や探究などの先行関心によって曇らされていない場合に物事がそう見えるような姿なのだ(同、p. 277

 詩的イメージを様々な<先行関心>という色眼鏡を通して見てしまっては、<観想>することが出来ず、それ自体から<歓び>は得られない。

詩人は「物事」についてそもそも何も言うわけではないのだ(つまり、詩の言説以外の言説空間に属するイメージについて、何も語りはしない)。詩人が語るのは、「これこそ、これらの人物や対象や出来事(例えば、オデュッセウスの帰還、ドン・ジョヴァンニ、ナイルの夕日、ヴィーナスの誕生、ミミーの死、現代の愛、麦畑(Traherne)、フランス革命など)が、実際にそうあった、または今そうある姿である」ということではなく、「観想の中で、私がこれらのイメージを生み出し、彼ら自身の性格の中にそれを読み、その中にただ歓びだけを求めたのだ」ということである。つまり、もし事物が本当にどのようであるかということがわかっているならば、まったく詩などは作り得ないだろうということである。(同)

 詩的イメージは、虚構の世界に属するものであって、実在するものではない。したがって、ここに<事実>に関する情報を持ち込むのはお門違いである。そもそも虚構なのだから事実がどうのこうのという話ではない。そのようなことに気を取られていては、観想の世界を楽しむことは出来なくなってしまう。

ワーズワースの説明によれば、観想されるものは「想像された情念」である。また、シドニ-は、何らかのやり方でまったく情熱ではない情熱――感じられないで「見透される」情熱について語っている(同、p. 279

 記憶が詩的イメージの豊かな源泉であるように思われるのは、記憶の中で(もし我々がノスタルジアの気分を逃れるのに成功するなら)我々はすでに、欲求と情動の実践的世界から、半ば解き放たれているからである。しかし、ここでさえ観想され得るものは、実際の認知される記憶ではなく1つの抽象――「事実」とは同定されない記憶、時空から切りはなされたものである。詩は記憶の娘ではなく、そのまま娘である。(同、p. 298

 詩的イメージの源泉は、「記憶された事実」ではなく「記憶が事実性を失い抽象化されたもの」と言われるのかもしれない。

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