オークショット「人類の会話における詩の言葉」(12)観想におけるイメージ

 観想(contemplation)におけるイメージは、実践的および科学的活動の相関者であるイメージとは、性格を異にしているので、これらのイメージの組織化もまた異なることになろう。実践的世界のイメージ相互(それは、快適と苦痛、是認と否認、「事実」と「非事実」、期待されると期待されない、選択されると拒絶される、のような区別によって組織されているが)の整合性の大本(おおもと)は、それらが欲求の産物であることにある。また、科学的イメージの世界は、相互に理解可能であることをその秩序原理としている。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 265)

 <観想>のイメージは、実践的活動のイメージや科学的活動のイメージとは異なるものだということである。

 観想の中で自己が眼ざめる世界は、うす暗く、そのイメージはぼんやりしたものかもしれない。またその活動が無関心と隣接しているかぎり、現われてくるものは、1つ1つゆるい連合でつながった、ただのイメージの連鎖で、そのそれぞれが現われる瞬間ごとに固有の歓びをもつが、どれも保持されたり探究されたりしないようなものであろう。(同)

 <観想>のイメージは、最初は朧(おぼろ)げなものであり、イメージとイメージの間の必然的な連鎖もない。

しかしながら、これは観想の最下底をなすもので、あるイメージが(それの提供する優越した歓びのために)注意の焦点となり、またそこから増殖がはじまる活動の核となる時、観想的自己が立ち現われるのは、そこからである。核となったイメージは、他のイメージを呼び寄せ、互いに結んで、さらに大きな複雑な構成を取るに至る。しかしこの構成でもって最後というわけではない。それは、同じ種類のもう1つのイメージにすぎない。(同)

 が、一旦<観想>のイメージが活動の核となると、イメージは活性化し、他のイメージを引き寄せて大きな構成体を形成する。

この過程で、諸々のイメージはつぎつぎと生れ、互いに変形し、融合し合うが、それはいずれもあらかじめ定められた計画が遂行されるものではない。ここでの活動は明らかに推論的なものでも論争的なものでもない。そもそも解かれるべき問題とか、調査されるべき仮定とか、克服されるべき欲求とか、かちとられねばならない是認など存在しないのだから、「こうだからああ」といったものはなく、イメージからイメージへと、その各手順がいちいち解明や企画の遂行となっている移行過程など存在しないのである。また、このイメージの迷路からの脱出をめざしているのではないのだから、どんな道案内もお呼びでないことになろう。(同、pp. 265-266

 <観想>のイメージは、因果関係があるわけでもなければ、論理的順序があるわけでもない。事前に展開や発展が想定されるようなものでもない。

どの場面でも、活動を促し、何であれそれが所有し得る整合性をそれに与えるものは、観想する自己とその諸イメージの間の、このたえず拡大していく相関関係の中に与えられ生じてくる歓びに他ならない。(同、p. 266

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