オークショット「人類の会話における詩の言葉」(13)観想とは何か
幸福とは、卓越性に即しての活動であるとするならば、当然それは、最高の卓越性に即しての活動でなくてはならぬ。最高の卓越性とは、しかるに、「われわれのうちにおける最善の部分」の卓越性でなくてはならない。それゆえ、これが或いは理性(ヌース)と呼ばれるにせよ、或いは何らか他の名称で呼ばれるにせよ、いずれにしても「その本性上支配指導する位置にあり、うるわしき神的なことがらについて思念しうる――それ自身が神的であることによってにしても、またはわれわれのうちに存する最も神的なるものであることによってにしても――と考えられるところのもの」――このものの、その固有の卓越性に即しての活動が、究極的な幸福でなくてはならない。それが観照(テオーリア)という活動である(「二コマコス倫理学」高田三郎訳:第10巻 第7章:『世界の大思想4 アリストテレス』(河出書房新社)、p. 223)
ここに言う「観照」は、「観想」と同じものである。アリストテレスは、幸福とは卓越性に即しての活動であり、最高の卓越性に即する活動を<観照>と呼んだ。
観想とは、実践的ならびに科学的想像とは異なった、ある特定の想像様式であり、イメージの間を立ちまわる様式である。それは、単なるイメージを製作し享受する活動なのだ。実践でも科学でも、「活動」は否定されるべくもない。一方には、満たされるべき必要、いやされるべき渇きがあり、飽満の後にはいつも欲望がやってくる。消耗はあっても安息はない。また他方にあってはそれ固有の用語法にかなった、同じようなたゆみなさがある。完全に知解可能なイメージ世界を眺望する、すべての探究成果は、新たな活動への序曲にすぎないのだ。
しかし、観想には、現われないものの調査もなければ、現存しないものへの欲求もないので、それはしばしば非活動性とまちがえられてきた。しかし(アリストテレスがそう呼んだように)それを非労働的活動と呼ぶ方が適切である。即ち、それが遊戯的で職業的でないゆえに、また論理的必然と実用的要請から解放され、心配からも自由なために、非活動性の性格に与(あずか)るように見えるような活動である。にもかかわらず、閑暇つぶし(σχολή)というこの見かけは、決して無気力のしるしではない。それは、その活動に参加する各人が享受する自足性に由来するのであり、その活動があらかじめ定められたような外的目的を欠いていることによるのである。
どの時点で観想が中断されようとも、それは常に完結している。従って、私が観想に結びつけている「歓び」は、この活動にもとづく報酬とか労働に支払われる賃金とか、科学的研究によって得られる知識とか、あるいは死やアへンの注射の後にやってくる解放とかと同じように考えることはできない。「歓び」は単に「観想」のもう1つの名前なのである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、pp. 266-267)
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