オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(39)真正の義務を課す者として現われる神

確かに「信仰」によって人は法律の創造者としての神を知るかもしれない。だが「信仰」がわれわれに示すものは、あらゆる人間に義務を課する自然法の創造者としての神ではなく、間接の契約によって神を自分の統治者と認め自分の同意によって神に授権した人々にだけ義務を課する、「実定法」の創造者としての神である。要するに、実定法が平和を求める努力を命ずるところでしか、それは義務にならない。この法だけが、既知の創造者を持っているものとして、本当の意味での法なのである。そしてこの法はその創造者を知っている人々だけに拘束力を持つ。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 332-333)

 神は神でも「自然法の創造者としての神」と、「信仰の対象としての神」とは違うのである。「信仰神」が課すのは、実定法としての「戒律」である。キリスト教で言えば、「十戒」と「律法」である。

 「ホッブズは自然法が既知の創造者を持っているという点で本当の意味での法であると考えていたか?」という質問は、「ホッブズは人類の中でいったい誰が、平和を求めて努力せよという指針の創造者としての神を知っているという理由で、この指針に従うよう拘束されていると考えたか?」という質問に解消される。そして我々はこの質問に答えるとき、神の「自然的な臣民」と契約または承認による臣民との間のホッブズによる有名な区別は、我々が当初考えていたほど確たる基盤を持っているわけではないことを見いだす。本当の意味での神の「王国」は、神が国法の創造者として認められている国家だけである。(同、p. 333

 自然法が義務的であるのは、臣民が<神>を国法の創造者として認めている国家だけに限定されるということである。

そして同じ結論は、「いかなる権威によって神はこの義務を課するのか?」という、関連する質問を考察するときにも現れる。我々が今考察しているホッブズの著作の解釈によると、神が自分のいわゆる「自然的臣民」に対して有する権威は、その抵抗できない力に起因しており、従ってそれは全人類のために立法する権威であると言われる。

しかしホッブズがこれらの個所や他の個所でどんなことを言っていると見えるにせよ、そんなことはありえない。万能あるいは抵抗できない力は、「万物の第1の、永遠の原因」としての神の特徴だが、この神は立法者あるいは「統治者」ではない。

また我々は、神を「国王」として、「王国」を持つ者として語ることは比喩的な語り方であると注意されてきた。本当の意味で「統治者」(真正の義務を課する者)として現われる神は、世界中のあらゆる人とあらゆるものの「統治者」なのではなく、「人類の中で彼の摂理を認める者」だけの「統治者」である。(同)

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