オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(27)必要なのは「立法者」の権威

加えて、義務の2つの条件がある。本当の意味の法が「立法者」から発されるのは、それに義務づけられる人々が立法者を法の作者として知っており、また彼の命令することを正確に知っている時に限られる。しかし実際には、これらの条件は最初の条件の中に含まれている。というのも、この授権あるいは承認という行為なしには、いかなる臣民も自分を臣民だと知ることができないし、そしてそのような行為を行いながら、立法者は誰で彼は何を命令しているのかを知らないということはありえないからである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 322)

 問われるのは、「立法者」が誰かということである。

 法は作られるところの何ものかであり、それはある特徴を持った立法者がある仕方で作ったという理由だけによって拘束する。そして義務は法からしか発生しない。――要するにこれがホップズの見解だったことは間違いない。あるいは換言すれば、いかなる命令も内在的に(すなわち、その命令の内容あるいは内容の妥当さのゆえに)あるいは自明に拘束するのではない。その拘束力は、証明あるいは論駁(ろんばく)されるべき何ものかであり、ホップズはその証明あるいは論駁にとっていかなる証拠が重要であるかを我々に語ったのである。この証拠は、その命令が本当の意味での法であるか――すなわち、命令がそれを作る権威を持つ人によって作られたか――だけに関わる。(同)

 皆が「立法者」に法を作るに足る権威を認めるかどうかが鍵となるわけである。

国家(civitas)の法は本当の意味における法であるという命題は、ホッブズにとっては、経験的ではなく分析的な命題だった。国家とは人間の生の人工的条件であって、そこにおいて①自分に服従する人々から権威を与えられたがゆえに法律を作る権威を獲得した立法者が作ったと知られている法律があり、②命令される内容が知られており、③命令されることについての権威ある解釈が存在するところのものとして定義される。それに加えて、これらの法律に服従する人々は服従のための十分な動機を持っている。本当の意味での法であるためのすべての条件を国法(civil law)は満たしている。それゆえ――と、ホッブズの著作をこのように読むことを弁護する人々は主張する――ホッブズの確乎たる見解は、国法は疑いもなく義務を課するが、そのことは国法が「自然的」義務を伴うような何らかの別個の「自然」法の反映だからではなく、国法の作成者と国法の作成、公布、解釈の方法の性格だけに起因している、というものだった。(同、pp. 322-323

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